東京地方裁判所 昭和56年(行ク)118号 決定 1982年4月30日
申立人 中央労働委員会
補助参加人 全学研労働組合
被申立人 株式会社学習研究社
主文
被申立人を原告、申立人を被告とする当庁昭和五六年(行ウ)第一二一号不当労働行為救済命令取消請求事件の判決の確定に至るまで、被申立人に対し、
(一) 申立人が中労委昭和五三年(不再)第一六号事件について発した昭和五六年九月一六日付命令によつて維持された東京都地方労働委員会の昭和五三年三月七日付命令(都労委昭和五〇年(不)第九号及び同三九号事件)の主文第一項ないし第四項(水谷嘉朗に関する部分を除く。)のうち、天野隆介に対して解雇の日の翌日から原職相当職に復帰するまでの間に受けるはずであつた賃金相当額の支払を命ずる部分と小峰光男及び青木宏に関する部分とを除くその余の部分に従うべきこと
(二) 小峰光男及び青木宏に対して解雇の日の翌日から本決定の日までの間に同人らが受けるはずであつた賃金相当額を支払うべきこと
を命ずる。
その余の本件申立を却下する。
理由
一 本件緊急命令申立の趣旨及び理由は、別紙一記載のとおりであり、本件申立によつてその履行を求める申立人中央労働委員会の発した救済命令(再審命令。以下「本件救済命令」という。)は別紙二、申立外東京都地方労働委員会の発した救済命令(初審命令)は別紙三各記載のとおりである。
二 まず、本件救済命令の適法性については、現時点において、これに重大な疑義があるものと認めることができない。
三 次に、本件緊急命令の必要性について検討する。
1 緊急命令制度の前提となる労働組合法二七条に定める救済命令制度は、労働者の団結権及び団体行動権の保護を目的とし、これらの権利を侵害する使用者の一定の行為を不当労働行為として禁止した同法七条の規定の実効性を担保するために設けられたものであり、使用者の組合活動侵害行為によつて生じた状態を、労使関係について専門的知識経験を有する労働委員会の個々の事案に応じた命令によつて直接是正し、もつて正常な集団的労使関係秩序を迅速に回復、確保しようとするものである(最高裁昭和五二年二月二三日大法廷判決・民集三一巻一号九三頁参照)。そして、緊急命令制度は、右のような救済命令の取消訴訟が提起された場合に、右取消訴訟の判決が確定するまでの間、暫定的に、過料の制裁を背景とする裁判所の決定をもつて救済命令の全部又は一部の履行を使用者に強制し、使用者の組合活動侵害行為によつて生じた状態を迅速に除去、是正することによつて、正常な集団的労使関係秩序を回復させ、もつて、救済命令制度の実効性を担保しようとするものと解される。そうすると、緊急命令の申立を受けた受訴裁判所が緊急命令の必要性の有無を判断するにあたつては、当該緊急命令を発することが正常な集団的労使関係秩序の回復、確保に資するものであるかどうかを考慮して、その必要性を判断すべきものと解するのが相当である。もつとも、本件のように解雇が不当労働行為とされる場合には、当該不当労働行為たる解雇によつて被解雇者個人が受けた雇用関係上の権利ないし利益の侵害の面を無視することは許されず、救済命令の内容は、右解雇によつて被解雇者の受けた個人的被害の救済の観点もあわせ考慮して決定されるべきものである(前記大法廷判決参照)から、緊急命令の必要性の判断にあたつても、当該緊急命令の内容が被解雇者の個人的被害の回復にとつて必要なものであるかどうかの点を無視することは許されないものというべきである。
そこで、以下、このような見地から本件について検討する。
2 当事者間に争いのない事実及び本件疎明によれば、天野隆介は編集総務部市場開発室への配置転換命令を拒否したことを理由に昭和四九年一一月二九日付で懲戒解雇され、また、山崎喜世雄及び田口精男は教育事業本部組織開発室への応援出向命令を、細谷晶、藤崎和男、田口繁富味、宮下弘二及び柿本哲夫は市場開発室への配置転換命令をそれぞれ拒否したことを理由にいずれも昭和五〇年四月一五日付で懲戒解雇され、さらに、窪田幹雄、小檜山範男及び安西剛はそれぞれ補助参加人組合の委員長、副委員長及び書記長として指名ストを指導したことを理由に、また、小峰光男は右組合の副委員長として指名ストを指導したこと及び会社内外において暴行脅迫行為を繰り返していることを理由に、青木宏は会社内外において暴行脅迫行為を繰り返していることを理由に、いずれも昭和五〇年四月一五日付で懲戒解雇されたこと、申立人中央労働委員会は右天野ら一三名に対する懲戒解雇をいずれも不当労働行為と認め、被申立人株式会社学習研究社に対して、右一三名の者を原職又は原職相当職に復帰させるべきこと(以下「原職復帰」という。)並びに解雇の日までの賃金の不就労控除額及び解雇の日の翌日から原職に復帰するまでの間に受けるはずであつた賃金相当額の支払(以下「バツクペイ等」という。)を命ずる救済命令を発したこと、右一三名のうち天野については、昭和五三年一一月三〇日に言渡された判決によつて、地位保全及び賃金仮払いの仮処分の申請が認容され、就労は拒絶されているものの、解雇の日の翌日以降昭和五二年一一月までの賃金(一時金を含む。)合計金八四七万四八七八円及び同年一二月以降本案判決確定に至るまで毎月二五日限り月額金一八万二五〇〇円の賃金の仮払いを受けていること、及び右天野を除く一二名の者については、現在までのところ右のような仮処分は発せられず、同人らは、解雇以来七年間にわたつて職を失い、賃金を絶たれ、不安定な生活を強いられていることが、一応認められる。
そうすると、本件申立のうち、天野に対してバツクペイを命ずる緊急命令を求める部分については、同人が既に仮処分によつてバツクペイ相当額の仮払を受けている以上、同人の個人的被害は事実として一応回復されているのであるから、さらにバツクペイを命ずべき必要性があると認めることはできないが、天野を除くその余の一二名に対してバツクペイ等を命ずる緊急命令を求める部分については、主として同人らの個人的被害の回復の見地から、その必要性が高いものと認めることができる。
3 次に、本件申立のうち天野ら一三名の原職復帰を命ずる緊急命令を求める部分について検討する。
(一) まず、天野ら一三名のうち前記小峰及び青木を除く一一名については、前記のとおり、配転命令の拒否、応援出向命令の拒否、指名ストの指導等を理由とする解雇が不当労働行為とされているのであつて、同人らを原職に復帰させるべき旨の緊急命令を発したとしても、特段、正常な集団的労使関係秩序の回復を阻害するものということはできず、かえつて、右一一名の者をめぐる紛争が一応鎮静化することが期待されるから、同人らに関する部分については、緊急命令の必要性を肯認することができる(なお、天野については、前記のとおり、既に地位保全の仮処分が発せられているところではあるが、被申立人が同人の就労を拒否していることにかんがみ、これを肯認するのが相当である。)。
(二) しかしながら、小峰及び青木の両名については、暴力の行使が解雇事由として問われているものであり、暴力の行使は、労働組合法一条二項但書に「いかなる場合においても、暴力の行使は、労働組合の正当な行為と解釈されてはならない。」と規定されているとおり、本来法の許容しないところであつて、正常な集団的労使関係秩序の回復、確保を阻害するものと考えられるから、他の一一名の場合と同断に論ずることはできない。
そこで、本件疎明及び本件救済命令の取消訴訟の証拠資料を検討すると、一応、次の事実を認めることができる。
(1) 小峰光男の暴力について
<1> 本件懲戒解雇前
小峰は、本件懲戒解雇前の昭和四八年一二月一三日には伝人事部長の左上膊部を強打し(この件で出勤停止一〇日間の懲戒処分を受けている。)、同四九年五月二七日には古岡滉副社長の腹部を数回殴打し(この件では出勤停止五日間の懲戒処分を受けている。)、同年一二月二日には土肥製作管理部次長の額を突きとばし、同月一〇日には古矢生産管理課長のメガネを奪い取り、筒状に巻いて持つていたカレンダーで同課長の頭部を数回たたき、手をねじり、ネクタイを締め上げ、ツバを吐きかけるなどの暴行を加えたほか、本件懲戒解雇の直接の理由となつた同五〇年四月四日午前一一時二〇分頃から正午頃にかけては、本社七階編集総務部の室内などにおいて、伝部長から、部内旅行で休業中であるので退去するよう指示されたにもかかわらず、これに従わず、職場離脱に対する警告書を同部長の胸ポケツトに押し込めようとしたり、手をねじ上げたり、同部長のネクタイを引つ張つたりしたほか、伝部長の要請でかけつけた山崎健一総務部長に対しても、これを小突くなどし、また、高橋人事部主査のカメラを奪取しようとして同主査に体当たりしたり、肘で顔面を突くなどの暴行を加えた。伝部長ら三名は、同日、馬込中央病院の木嶋健医師の診察を受け、伝部長は右手首捻挫で全治一週間、山崎部長は右手指擦過傷で全治四日間、高橋主査は口腔内挫傷で全治五日間と、それぞれ診断された。
<2> 本件懲戒解雇後
小峰は、本件懲戒解雇後の昭和五〇年七月七日には土肥次長の腕をねじ上げ、羽交い締めにし、同月二一日には高橋主査に体当たりして突き倒し、同年一〇月二七日には金井家職事業部主任のネク夕イを締め上げ、同年一二月一五日には伝部長につかみかかり、胸倉を小突いたり足蹴りするなどし、同五一年四月五日には土肥次長の頸部を引つかくようにし、同年五月三一日には小笠原震六郎庶務第一課長を小突き、同年六月七日には宇佐美広告部次長に体当たりや足蹴りするなどし、同年七月二一日には小笠原課長のネク夕イを締め上げるなどし、同年九月一七日には芝山販売局課長を小突き、同年一一月九日には磯部経営相談室主任を小突いたり足蹴りしたりし、同月一〇日には伊藤総務部主任、本郷学習編集部次長らを小突き、同五二年一月一〇日には大橋映電事業部長に体当たりし、両腕を扼して胸部を強打するなどして左胸部打撲の傷害を負わせている。
なお、小峰は、昭和五二年二月二日に、右昭和五〇年一二月一五日及び同五二年一月一〇日の件で、青木及び水谷とともに逮捕され、その後起訴されて、同五四年五月二五日に罰金二〇万円に処せられ、同五六年六月一六日には東京高等裁判所で控訴が棄却されている。
(2) 青木宏の暴力について
<1> 本件懲戒解雇前
青木は、本件懲戒解雇前の昭和四八年一〇月一七日には鎌倉教育システム開発部編集長の足を蹴り、同年一一月一二日には佐久間生産管理部長の左顔面を殴打し、同年一二月一三日には背後から伝人事部長に飛びかかり、同部長の両脇に腕を差し入れて羽交い締めにし(この件で出勤停止一〇日間の懲戒処分を受けている。)、同四九年一月九日には古岡滉副社長、伝部長らに体当たりしたり小突いたりし、同月一一日に高橋主査の右足を蹴り、同年八月三〇日には古矢課長に背後から体当たりし、同年九月一三日には島野主任の臀部を背後から足蹴りしたり首を締めたりワイシヤツを引き裂くなどし、同月二六日には宇佐美次長の首筋を背後から締めつけ、同月二七日には土肥次長のネク夕イを引つ張り、また、小笠原与志一保育事業部長の首を締め、小坂事務管理部長を腰投げして転倒させ、同年一一月二一日には永野副部長を壁面に押しつけ、同月二七日には伝部長の足を蹴り、同年一二月一〇日には古矢課長の右腕をねじ上げ、同五〇年一月一六日には伝部長に体当たりし、同月二二日には伝部長の足を蹴るなどしたほか、本件懲戒解雇の直接の理由となつた同年三月一一日午前九時一五分頃から九時二五分頃には、本社付近で、高木高校雑誌編集部長が出勤してくるのを認めるや、他の組合員らとともに同部長に詰めより、「配転を撤回しろ」などと叫びながら、集団の先頭を切つて同部長を周辺建物の門扉や壁面に押しつけ、これら暴行から逃れようとする同部長を約六〇メートルにわたつて執拗に追い回し、小突き、同部長がようやく本社構内入口の階段に至るや、これを阻止するように前面に立ちふさがるなどの暴行を加えた。
<2> 本件懲戒解雇後
青木は、本件懲戒解雇後の昭和五〇年五月二七日には古岡秀人社長を突きとばし、同年七月七日には土肥次長の腕をねじ上げるなどし、同年九月三〇日には村田学習編集部長の胸を小突き、同年一〇月六日には高木部長を足蹴りしたり押し倒すなどし、同月一七日には黒川学習科学編集局次長に体当たりしたり横から突くなどして転倒させ、同月二七日には土肥次長を足蹴りするなどし、同年一二月一五日には伝部長につかみかかつて近所の食堂のシヨーウインドウに押しつけるなどし、同五一年一月一二日には小田秘書長を押し倒し、同年二月九日には小笠原課長の腕をねじ上げるなどし、同年四月五日には丸山資金課長の左側頭部を殴打し、同年七月二一日には古矢課長らともみ合い、同年一一月九日には芝山課長の下腹部を足蹴りし、背中を殴打するなどし、同月一〇日には森山総務部主任の顔面を殴打するなどし、同五二年一月一〇日には大橋事業部長のネクタイを締め上げ腕をねじるなどし、小峰らとともに同事業部長に左胸部打撲の傷害を負わせている。
なお、青木は、昭和五二年二月二日に、右昭和五〇年一二月一五日及び同五二年一月一〇日の件で、小峰及び水谷とともに逮捕され、その後起訴されて、同五四年五月二五日に罰金二〇万円に処せられ、同五六年六月一六日には東京高等裁判所で控訴が棄却されている。
(3) 右のほか、補助参加人組合以外の従業員組合や学研「生活を守る会」などとの対立から幾多の暴力事件が発生し、なかでも小峰及び青木の両名がその積極的役割を果していることや、青木が、自分の暴力は労働委員会で認められたものであると喧伝して、その態度を改める様子もないことなどが認められる。
(三) 右認定したところによれば、小峰及び青木の両名は、本件解雇の前後を通じ、会社の上司等に対して数多くの暴行行為を繰り返しているものであつて、現時点において右両名を原職に復帰させるならば、再び職場内外で組合活動にからんだ暴力事件が惹起される危険性のあることは明らかであり、そのような事態は、緊急命令制度の目的である正常な集団的労使関係秩序の回復、確保に資するところがないばかりか、かえつてこれを阻害する結果をもたらし、その制度の趣旨に反することとなるものであるから、個人的被害の回復の立場からはその必要性が全く認められないのではないとしても、現時点において、小峰及び青木の両名を原職に復帰させるべき旨の緊急命令を発することは許されないものというべきである。
四 以上のとおりであるから、天野、小峰及び青木の三名を除く山崎ら一〇名の者については、申立の趣旨どおりの緊急命令を発することとし、天野については、原職相当職への復帰のみを命ずる緊急命令を発し、バツクペイの緊急命令を求める申立の部分を却下することとし、小峰及び青木の両名については、解雇の日の翌日から本決定の日までのバツクペイのみを命ずる緊急命令を発し、原職復帰の緊急命令を求める申立の部分を却下することとして、主文のとおり決定する。
(裁判官 宍戸達徳 杉本正樹 須藤典明)
(別紙一)
申立の趣旨
右当事者間の御庁昭和五六年(行ウ)第一二一号不当労働行為救済命令取消請求事件の判決確定にいたるまで、被申立人は申立人が被申立人になした中労委昭和五三年(不再)第一六号事件の命令に従い、「1被申立人は、山崎善世雄、田口精男に対する懲戒解雇及び昭和四九年九月一日以降七次に亘る教育事業本部組織開発室応援出向命令を撤回して、同人らを原職に復帰させ、昭和四九年九月一八日以降解雇の日までの賃金の不就労控除額及び解雇の日の翌日以降原職に復帰するまでの間に受けるはずであつた賃金相当額を支払わなければならない、2被申立人は、天野隆介を配転前の原職相当職に復帰させ、解雇の日の翌日から原職相当職に復帰するまでの間に受けるはずであつた賃金相当額を支払わなければならない、3被申立人は、田口繁富味、宮下弘二、柿本哲夫、藤崎和男及び細谷晶に対する懲戒解雇及び編集総務部市場開発室への配転を撤回し、田口、宮下、柿本を配転前の原職または原職相当職に、藤崎、細谷を原職に復帰させ、田口及び宮下に対しては昭和四九年一二月二六日以降の、柿本に対しては昭和五〇年一月一〇日以降の、藤崎に対しては昭和五〇年二月一七日以降の、細谷に対しては昭和五〇年四月一四日以降の、いずれも解雇の日までの間の賃金の不就労控除額及び解雇の日の翌日以降原職または原職相当職に復帰するまでの間に受けるはずであつた賃金相当額を支払わなければならない、4被申立人は、窪田幹雄、小峰光男、小檜山範男、安西剛及び青木宏を原職に復帰させ、解雇の日の翌日から原職に復帰するまでの間に受けるはずであつた賃金相当額を支払わなければならない、」との決定を求める。
申立の理由
一 申立外山崎喜世雄、同田口精男、同天野隆介、同田口繁富味、同宮下弘二、同柿本哲夫、同藤崎和男、同細谷晶、同窪田幹雄、同小峰光男、同小檜山範男、同安西剛、同青木宏は、被申立人株式会社学習研究社に勤務し、編集制作業務に従事していたところ、<1>山崎、田口(精)は昭和四九年九月一日以降七次に亘り教育事業本部組織開発室に応援出向を指示され、同月一八日以降指名ストを行つたところ、昭和五〇年四月一五日懲戒解雇され、<2>天野は昭和四九年一一月一二日編集総務部市場開発室に配転を命ぜられ、同月二九日懲戒解雇され、<3>田口(繁)、宮下は昭和四九年一二月二三日、柿本は昭和五〇年一月九日、藤崎は同年二月一六日、細谷は同年四月一四日編集総務部市場開発室に配転を命ぜられ、細谷は同日から、細谷以外の者は発令の翌日からそれぞれ指名ストを行い、田口(繁)ら五名は昭和五〇年四月一五日懲戒解雇され、<4>窪田、小峰、小檜山、安西、青木は昭和五〇年四月一五日懲戒解雇された。
二 これに対し、右山崎らの所属する申立外全学研労働組合は、東京都地方労働委員会に、右応援出向指示及び配転命令並びに懲戒解雇は労働組合法第七条第一号、第三号に該当する不当労働行為であるとして救済の申立てを行い、同委員会は審査の結果、昭和五三年三月七日付をもつて、別紙疎甲第一号証の二の「主文」記載のとおりの命令を発することとし、右命令は同月三〇日被申立人に交付された。
三 被申立人は、右命令を不服として同月三一日申立人委員会に、再審査の申立てを行い、申立人委員会は審査の結果、昭和五六年九月一六日付をもつて別紙疎甲第一号証の一の「主文」記載のとおりの命令を発することとし、右命令は同年一〇月一六日被申立人に交付された。
四 右救済命令に対し、被申立人は、昭和五六年一一月一二日不当労働行為救済命令の取消しを求める旨の行政訴訟を提起し、右事件は御庁昭和五六年(行ウ)第一二一号として目下審理中である。
五 申立人委員会は、前記三のとおり疎甲第一号証の一の命令書を交付したのであるが、被申立人会社は、この命令を履行せず、かつ申立人委員会の照会に対しても疎甲第二号証の二のとおり命令を履行する意思を有していない旨の回答をしている。
ところで、山崎喜世雄ら一三名は、いずれも編集制作要員として入社以来その業務に従事してきたところ、昭和四九年一一月ないし昭和五〇年四月に懲戒解雇されて以来今日まで短い者で六年半、天野隆介は七年余り経過し、その間同人らの経済的損失はもとより、編集制作要員としての専門技能を低下させ、新しい技術の習得もできない状態におかれており、これらの点を考慮すると、もしこの訴訟が解決するまで申立人委員会の発した前記命令の内容が実現されないならば、同人らは生涯回復することのできない損害を蒙ることが明らかである。
また、申立外全学研労働組合の組合員数は、本件再審査結審当時約八〇名に減少している状況で山崎ら一三名の被解雇者をかかえ、申立外組合が財政面で打撃をうけ、そのため組合活動に支障を来たすことはもとより、その存立基盤すら脅かされているとともに、申立外組合の第一期及び第二期の三役全員が本件懲戒解雇に付され、現在も被解雇者の安西が書記長、窪田ら三名が執行委員と、中心的な活動家がいずれも就労できない状況にあり、しかも疎甲第三号証の一の資料一のとおり、会社が被解雇者の社内への立入りを禁止している現状においては、山崎ら一三名の復職がなされない限り、申立外組合の団結権、団体行動権は回復することのできない損害を受けることも明白であり、ひいては労働組合法の立法精神は没却されることになる。
六 したがつて、当委員会は、昭和五六年一二月二日第八八〇回公益委員会議において、労働組合法第二七条第八項の規定により、本件緊急命令申立てを決定した。
よつて、本件申立てに及んだ次第である。
(別紙二)
命令書
(中労委昭和五三年(不再)第一六号 昭和五六年九月一六日 命令)
再審査申立人 株式会社学習研究社
再審査被申立人 全学研労働組合
主文
1 本件初審命令主文第四項中「、青木宏および水谷嘉朗」を「および青木宏」に改め、同第五項の記中「一四名」を「一三名」に改める。
2 再審査被申立人全学研労働組合の水谷嘉朗に関する救済申立てを棄却する。
3 その余の本件再審査申立てを棄却する。
理由
第1当委員会の認定した事実
1 当事者等
(1) 再審査申立人株式会社学習研究社(以下「会社」という。)は、肩書地に本社を、全国各地に五三支社を置いて、書籍、雑誌、教材、教育機器等の出版、制作及び販売を営んでおり、その従業員数は昭和五〇年当時約二、一七〇名であつて、編集制作八五〇名、一般管理事務五七〇名、営業促進五〇〇名、倉庫運輸二五〇名に分かれていた。
(2) 再審査被申立人全学研労働組合(以下「労組」という。)は、後記経緯により昭和四八年九月三〇日、会社従業員七七名により結成され、その組合員数は昭和四九年一二月頃二一〇名余であつたが、初審結審当時は約一〇〇名となり、本件結審時には約八〇名に減少している。組合員のほとんどは編集制作部門に所属している。また、労組は総評全国一般労働組合東京地方本部に加盟している。
(3) 会社には、労組のほかに昭和三三年頃結成された申立外全学研従業員組合(以下「従組」という。)があり、管理職以外の従業員約一、八〇〇名を組織している。
また、昭和四九年一月、一部の従業員は学研生活を守る会(「学研を守る会」ともいうが、以下単に「守る会」という。)を結成した。守る会は、労働組合ではなく、その目的として、労組執行部に挑戦して猛省を求め、労組が破壊活動を止める日まで闘うことをあげている。
2 労組結成前後の労使関係
(1) 従組員の一部は、従組が結成以来大会を開催せず、執行部が会社と話し合つて賃上げ要求の内容までも決定する等の運営をしているとして、その本質を批判し、昭和四五年頃から月額一〇〇円の組合費の不払を実施するようになつた。これに対し従組は、昭和四七年九月一一日不払を続けていた小峰光男、青木宏、水谷嘉朗、那須紘一、成川章の五名を権利停止処分に付した。小峰らは、この処分が不当であるとして一〇月二四日会社構内で「学研不払い闘争グループ」名義のビラを配布した。ところが一〇月二八日、会社は、本件ビラ配布は無許可であり就業規則に違反するとして、小峰、青木、水谷、那須、小松崎昭の五名を譴責処分に付した。小峰らは、譴責処分が不当労働行為であるとして、東京都地方労働委員会(以下「地労委」という。)に救済を申し立て(都労委昭和四七年(不)第一二五号事件)、同事件は、昭和四八年一一月二九日、地労委で和解が成立し、取り下げられた。
小峰ら従組組合費不払グループ(以下「不払グループ」という。)は、昭和四七年一一月以降も、従組執行部の体質を批判する公開質問状、ビラ配布等の活動を行つた。
(2) 従組の職場委員平野勝男(科学編集部)、同岡田隆(人文科学編集部)は、昭和四八年四月二三日、従組執行部と会社との間で締結された残業協定を批判するビラを配布した。これに対して、平野の上司である黒川巌科学編集部長は、五月八日の編集長会議で、ビラの内容に問題があると指摘した。同部の編集長(従組員)らは、同日から一〇日にかけて、平野らの職場委員の地位を奪うリコール署名を集約し、同月一五日、従組はこのリコールを承認して、平野らを職場委員から解任した。
なお、平野らは、ビラの内容に誤解を招きかねない部分があつたとして、四月二七日付の社内報「学研ライフ」に「おわび」を掲載している。
(3) 昭和四八年九月三〇日、従組執行部に批判的であつた者を中心に七七名の従組員は、従組を脱退して労組を結成した。翌一〇月一日、労組は、会社に結成通告をするとともに、<1>富山靖生の配転問題、<2>人事の事前協議制に関する要求を提出し、団体交渉を申し入れた。
会社と労組は、一〇月五日、団体交渉ルールについて合意し、富山配転問題については、同月九日以降九回の団体交渉により、一一月一三日妥結し、また、人事の事前協議制については、同月一九日第一回団体交渉を行つた。労組は、この間の同月五日に年末一時金を要求していたため、二一日の団体交渉で、事前協議制の交渉を中断して一時金問題を交渉するよう求めたが、会社は事前協議制が解決しなければ、一時金の交渉に応じられないとした。このため、労組は事前協議制の要求を取り下げた。
(4) 年末一時金の団体交渉は、一二月六日の第一回以降同月二七日の妥結までに七回行われ、その間に労組は、時限スト及び残業拒否を行い、本社玄関前構内集会、ビラ貼付、ビラ配布等をくり返し、結局労組員に、年末一時金が支給されたのは同月二九日であつた。
(5) 会社における賃金引上げは、毎年一月一五日締切りの一月支給分から実施されており、会社と従組は、昭和四九年賃上げについて、昭和四八年一一月一三日妥結していた。他方、労組は、同月二七日に賃上げを要求し、昭和四九年一月一〇日に第一回団体交渉を行つた。この交渉において会社は、同月一四日までに妥結しなければ一月分賃金支給日に新賃金を支給できないと主張した。たまたま同月一〇日に後記表1の<1>ないし<3>の小峰ら執行委員に対する出勤停止処分がなされたため、第二回団体交渉は同月一七日に行われた。この交渉において、労組が会社回答による妥結を申し入れたところ、会社は新たに下記の<付>を協定書に入れるよう求め、結局、会社と労組は、同月二二日の第三回団体交渉で合意し、同月二九日に、「賃上げは従組妥結内容の基準に従い、実施は一月一七日付(二月支給分)よりとし、一月支給分遡及については協議する。<付>会社は、労使関係の正常な運営をはかるため、今後の問題として、組合に要求提出ならびに妥結の手続につき改善を求め、組合はこれを諒とした。」旨の合意書を締結した。
(6) その後、会社と労組は、一月分遡及支給に関する交渉を行い、二月八日、次のような内容の合意書を締結した。
「1 会社は、一月の臨時昇給額相当分を臨時手当として二月支給分給与に加算して支払う。
2 組合は、一月の賃金計算締切日以前に会社回答を受諾する実質的意思があつたことを主張し、会社はこれを認めた。
3 会社は、一月の賃金計算締切日以前に合意妥結に至らなかつた要因のひとつとして、妥結意思表示の時期の選択ならびに手続において組合側に適切さを欠く面があつたことを主張し、組合はこれを諒とした。」
(7) 昭和四九年一月一〇日会社は、前年の年末一時金闘争中に労組が行つた構内無許可集会、ビラ貼付及びロビー座込み占拠が違法な組合活動であるとして、幹部責任を追及して小峰ら執行委員九名を出勤停止四日ないし一〇日の懲戒処分に付した(表1の<1>ないし<3>)。
(8) また、二月二七日夕刻、労組員数名が鎌倉市今泉の人事部長伝裕雄宅周辺で、「市民の皆さんに訴えます――労働者を圧殺する学研資本の実体――」と題するビラ約二〇〇枚を配布した。これに対し会社は、三月一日「労組の人権じゆうりん行為について」と題する副社長名義の文書を社内に配布するとともに、同月三〇日、ビラ配布が業務妨害及び個人攻撃で正当な組合活動といえないことを理由に、小峰及び那須を出勤停止処分に付した(表1の<8>、<9>)。
(9) 五月三一日労組は、ビラ配布に小峰が参加していないことを立証するため、前記の今泉周辺で目撃者の調査を行つた。同日、製作管理部次長土肥一雄、生産管理部次長古矢那彦らの守る会会員や従組員ら二〇名以上が同部長宅周辺に赴いており、同人らの報告等に基づいて、六月八日、会社は、労組の調査が違法であつて信用失墜行為に当たるとして、小峰ら四名を再度、出勤停止処分に付した(表1の<15>、<16>)。なお、労組が五月三〇日付ビラで、二月二七日のビラ配布に青木が参加していた旨を明らかにしたところ、六月三日、会社は青木を出勤停止処分に付した(表1の<13>)。
(10) また、会社は上記各処分に抗議したこと、その他春闘、夏期一時金闘争、後記組織開発室応援出向反対闘争及び市場開発室配転反対闘争等に関連して、労組員を懲戒処分にしており、上記各処分を含め、これらを時系列的に示せば、表1のとおりである。
表1 労組員の懲戒処分一覧(本件懲戒解雇は除く)
番号
処分年月日
処分対象者
処分理由
処分内容
<1>
<2>
<3>
<4>
四九・一・一〇
〃
〃
〃
小峰(委員長)
細谷、山崎、安西(三役)
水谷ら執行委員五名
青木
四八年末一時金闘争中の構内無許可集会、ビラ貼付及びロビー座込み占拠の幹部責任並びに小峰、青木については団交要求をめぐる伝部長とのトラブル(一二・一三)
出勤停止一〇日
〃五日
〃四日
〃一〇日
<5>
一・二八
岡田ら四名
四八年末一時金闘争中ビラ貼付
譴責
<6>
<7>
二・二五
〃
青木
那須
応援出向中の支社において腕章を着用し、取りはずし命令を拒否
出勤停止三日
〃二日
<8>
<9>
三・三〇
〃
小峰
那須
二・二七伝宅周辺ビラ配布
〃一〇日
〃五日
<10>
<11>
<12>
五・二七
〃
〃
小峰(委員長)
細谷、山崎、安西(三役)
水谷ら執行委員五名
春闘中、三・一八~四・一〇構内無許可集会一四回の幹部責任及び小峰が四・一人事部室に入り、退去命令に従わなかつたこと
〃四日
〃三日
〃一日
<13>
<14>
六・三
六・八
青木
小峰
二・二七伝宅周辺ビラ配布
五・二七六階会議室前廊下で、処分撤回要求等を申し入れ、古岡滉副社長とトラブル
〃五日
〃五日
<15>
<16>
〃
〃
小峰
青木ら三名
五・三一伝宅周辺事情調査
〃二日
〃一日
<17>
〃
青木
出勤停止処分中、六・三岩瀬常務の、六・四古岡勝副社長の自動車発進の妨害及び六・四ビラ配布
〃五日
<18>
〃
山崎、田口(精)、安西、小峰、窪田ら二一名
六・三看板、旗等除去に抗議して無断職場離脱
譴責
<19>
四九・六・八
山崎、細谷、安西、水谷、小峰ら二四名
六・四処分撤回を求めて人事部で抗議
譴責
<20>
六・一〇
田口(精)、山崎、細谷、安西、小峰ら一九名
六・五処分撤回を求めて人事部で抗議
〃
<21>
六・一七
小峰、水谷、田口(精)、細谷ら一〇名
六・七時限スト中に館内から不退去
〃
<22>
<23>
七・五
〃
小峰ら三役四名
水谷ら執行委員五名
夏期一時金及び処分撤回闘争中の構内無許可集会、ビラ貼付、スト中の館内不退去等の幹部責任
出勤停止三日
〃一日
<24>
<25>
一〇・一一
〃
小峰ら三役四名
水谷ら執行委員五名
九・一〇~九・三〇応援出向反対闘争中の構内無許可集会及びスト中館内でビラ貼付の幹部責任
〃三日
〃一日
<26>
一一・二八
窪田、小峰、安西、細谷ら八名
一一・二〇天野配転に反対して職場離脱し、抗議
譴責
<27>
五〇・一・二四
小峰ら二名
四九・八・二労組ニユースで機密事項を漏洩
出勤停止三日
<28>
〃
田口(繁)、宮下
四九・一一・二五~一一・二九応援出向指示に従わず、自席に座込み
〃五日
<29>
〃
窪田、小峰、安西ら三役四名
四九・一一以降応援出向反対、市場開発室配転反対、天野解雇撤回等の闘争中の構内無許可集会の幹部責任
〃三日
なお、就業規則上の懲戒処分ではないが、会社は労組員に対し、次のような厳重注意を行つている。
表2 労組員に対する厳重注意
年月日
対象者
理由
四八・一二・一三
青木
一二・一三ロビーで労組のビラ折りをして退去しなかつたこと
四九・一・二八
桐原利之
四八・一二・一四~一二・一九ビラ貼付
四・三
岡田
四・一ビラ配布(職場で昼休み中)
六・一七
窪田
六・七永野副部長に大衆団交要求
一二・一八
〃
一二・一三無断職場離脱
五〇・一二・四
佐川光徳
四九・一一・一四無許可集会、一一・二八~一二・二無許可集会
3 会社における従業員の採用と配置
(1) 会社における昭和四二年から同四八年の大学新卒者の募集要項では、募集職種を<1>編集制作要員(出版・映画・教材等の編集制作業務)、<2>営業・業務要員(営業企画・調査・促進業務、管理部門業務、コンピユーター業務)、<3>技術要員(機器の設計開発業務、セールスエンジニア業務)に区分し、求人申込票にも採用後の職種を、上記の区分により記載し、応募者にも希望職種を明記させている。
採用試験は、三部門共通の性格・能力テスト、作文と面接のほか、漢字や一般教養テストを実施した年もあり、昭和四二年、四三年及び四八年には希望職種別に専門テストを実施した。また、選考は、昭和四八年については<1>、<2>、<3>の職種別に行つた。
採用後の新入社員に対しては、三部門共通に約一週間のオリエンテーシヨン及び二週間から三カ月の営業部門研修(昭和四五年以降)を行つた後、上記職種別の配属先で編集技術研修、営業研修を実施している。
また、途中入社募集の新聞広告には、上記と同様の職種を明示し、応募者に希望職種を明記させていた。
(2) なお、会社は、昭和四九年及び五〇年に新規採用を中止した後、昭和五一年大学新卒者の募集を行つたが、その募集要項では、「二年間の各支社での研修を経た後、本人の適性を勘案し、編集制作、営業促進、管理、技術等の各部門でそれぞれの業務に従事していただきます。その後も、必要に応じ、部門間の異動、担当職務の変換は活発に行われます。」とされており、同年新入社員は、オリエンテーシヨンを経て、二年間の支社実習の後、各部門に配置された。
(3) 会社は、従業員を採用する際に、「会社の定める就業規則を承認し、これに従つて職務に従事する義務を負う。」旨の労働契約書をとりかわしている。また、就業規則には、「会社は業務の都合により従業員に転勤、転籍、勤務替……を命ずることがあります。この場合従業員は正当な理由がなければ拒むことはできません。」と定められている。
(4) 会社は、昭和四八年以前の新入社者を配置する場合 原則として希望職種に配属し、その後は営業部門従業員の本社、支社間の配転、管理職の部門間の異動をしばしば行つたが、そのほかの一般従業員の編集制作部門から営業部門への配転については、原則として本人の同意がない限り行わなかつた。
4 組織開発室の業務と応援出向の推移
(1) 会社の出版物の三分の二近いものは、会社と専売契約を結ぶ直配所(代理店)が直接読者に販売する直販制をとつている。この販売制度を維持するため、会社は全国に五三支社を設け、四〇〇名の従業員を支社に常駐させている。会社の基幹商品である月刊学習雑誌「学習」及び「科学」も、学校内において直配所が直接児童生徒に販売する学校直販制をとつていた。
昭和四六年夏頃、日本消費者連盟が、会社の学習百科事典の内容ミスを指摘するとともに、学校直販制の弊害をとりあげ、これが新聞等で大きく報道され(いわゆる日消連事件)、各地の教育委員会や学校から会社、直配所に対し、校内販売を中止して校外販売とするよう要請がなされた。日消連事件により販売部数減に陥り、かつ、学校直販制中止を迫られた会社は、「学習」及び「科学」を家庭に直接販売する家配制を採用することとし、そのための販売組織として直配所の下に配本従事者であるコンパニオンを組織することとした。
(2) 昭和四七年六月会社は、家配移行を推進する業務を直接担当していた支社の業務を指導するために、本社教育事業本部に組織開発室を設置している。同室の人員及び家配移行率の推移等は、表3のとおりである。
表3 組織開発室の人員及び家配移行率の推移
年月日
組織開発室室員数
応援出向人員数
計
学習・科学の販売部数
家配移行部数率
家配移行校区率(注)
四七・六・一
一〇
〇
一〇
四九〇万
二.八%
四%
六・一六
一五
〇
一五
七・一
一六
〇
一六
八・一
一七
〇
一七
八・一六
一八
〇
一八
九・一
一七
〇
一七
一〇・一
一八
一六
三四
一〇・一六
一七
一六
三三
一一・一
一七
五〇
六七
一二・一
一六
五〇
六六
四八・一・八
一六
五四
七〇
四三八万
二四.三%
二九.六%
五・一六
一九
四〇
五九
六・一
三六
一四
五〇
四四五万
四三.一%
五〇%
六・一六
四六
一〇
五六
七・一
四五
一〇
五五
七・九
四七
九
五六
七・二〇
四六
七
五三
八・一
四五
七
五二
八・一六
四六
六
五二
九・一
四五
五
五〇
一〇・一
四四
四
四八
一〇・一六
四三
四
四七
一二・一六
三二
四
三六
四九・三・一
三四
三
三七
四〇三万
六四.九%
七六.五%
五・七
三二
三
三五
五・一六
三〇
三
三三
四二三万
七〇.一%
八三%
七・一
三二
一
三三
七・一六
三一
一
三二
八・一
三〇
一
三一
一〇・一六
三〇
三九
六九
一一・一六
三〇
三四
六四
一二・一六
三〇
一一
四一
五〇・二・
三〇
三
三三
四〇四万
七四.九%
八九%
六・
三〇
二
三二
四六八万
七五.八%
九一.七%
五一・四・
〇
〇
〇
五一九万
七九.二%
九六.三%
五三・四・
―
―
―
六一二万
八四.二%
一〇〇%
(注) 家配移行校区率=家配移行校区/家配移行可能校区×一〇〇
設置当初の組織開発室は、室員一〇名で、主として支社の家配移行業務の指導に当たつていた。その後、支社における家配移行に伴う業務を室員が直接応援する必要が生じ、室員が全国の支社に出張するようになり、さらに室員のみでは人員が不足することとなつたため、会社は昭和四七年一〇月以降、組織開発室以外に所属する従業員に対し、所属はそのままとして一定期間、家配移行業務を応援させる応援出向制度をとることとした。
この応援出向は、組織開発室に要請のあつた各支社に二週間サイクルで出張し、支社の指示により管内の直配所に赴いて、コンパニオン募集のための家庭訪問やチラシの配布、応募してきたコンパニオンの面接、家配移行のためのカード作成、販売拡張のためのチラシ配布等を主な業務とするものであつた。
このような応援出向とともに、組織開発室員の増員も行われて、表3のように昭和四八年一月には、室員と応援出向者の合計が七〇名とピークに達し、その後は室員の増加もあつて応援出向は減少した(昭和四七年一〇月から翌四八年七月頃までの期間の応援出向を以下「第一期応援出向」という。)。
(3) 日消連事件の影響と家配移行の混乱により「学習」及び「科学」の販売部数は、昭和四六年七月号の六二〇万部から昭和四七年六月には四九〇万部に減少し、その後、表3のとおり家配移行は進んだものの、部数の減少が続き、昭和四九年三月には四〇三万部となり、新入生が入つて部数増の期待できる同年五月にも四二三万部であつた。このため会社は、同年八月家配移行後の販売拡張を担当するコンパニオンの質の改善を図るとともに、組織開発室が直接販売拡張を行い、翌年五、六月の新学期に五〇〇万部を達成する目標をたて、これを実現するために同室への応援出向体制をとる方針をとり、全社的に応援出向の協力を要請し、実施した(昭和四九年一〇月頃から翌昭和五〇年初めまでの期間の応援出向を以下「第二期応援出向」という。)。
(4) ところで、第一期応援出向後、労組員の応援出向(支社への応援出向を含む)をめぐり、次のような経緯があつた。
<1> 昭和四八年八月一日会社は、理工学図書事業室を新設し、自然科学編集部から小峰、那須を配属し、九月には週刊グラフ百科編集室から青木を配属したが、同年一二月末に同室の廃室を決定し、翌四九年一月一六日小峰ら三名を人事部長付に、同月二四日には同人らを編集総務部長付とするとともに、二月一日から、小峰を城南支社に、那須を城北支社に、青木を組織開発室にそれぞれ応援出向するよう指示した。これに対して、労組は、小峰は委員長、青木は組織部副部長であつて、組合活動上の支障があるとして再考を求めたが、会社は再考の余地はないと回答した。そこで那須、青木は二月一日、異議をとどめて応援出向先に赴任したが、三月一日から応援出向を拒否して指名ストに入つた。また、小峰は応援出向を拒否して二月一二日から指名ストに入つた。
<2> 若い女性を対象とする月刊誌「フローリア」は、昭和四四年に創刊され、女性雑誌編集室が担当していたが、昭和四八年一二月会社は、同誌を昭和四九年三月号で廃刊することに決定した(廃刊作業は一月末完了)。昭和四九年二月七日会社は、同誌編集員八名(七名は労組員、編集長は一月三一日労組脱退)に対し、同月一二日から同月末まで都内及び近県の各支社への応援出向を指示し、同誌編集員七名はこれに応じた。
<3> 労組は、小峰、那須、青木及び「フローリア」編集員七名の応援出向問題につき会社に団体交渉を申し入れたが、会社はこれに応ぜず、同月一八日「異動については組合と話し合う余地はありません。これは該当本人が組合の役員であつても例外ではありません。」との記載がある文書を社内に配布した。労組は、上記一〇名の応援出向指示が不当労働行為であるとして、地労委に救済を申し立てた(都労委昭和四九年(不)第一八号事件)。応援出向に応じた「フローリア」編集員七名は三月一五日までに本社の編集業務に復帰し、小峰ら三名については五月一七日、地労委で和解が成立し、同人らは和解協定に従い六月末までの間応援出向をした。
5 山崎、田口(精)の本件応援出向及び懲戒解雇
(1) 山崎喜世雄は、昭和四五年三月に入社し、同年六月学習編集部に配属されて以降、同部内で「四年の学習」本誌等の編集制作業務に従事してきたところ、昭和四九年一月九日の部内異動で「五年の学習」本誌から新設された「企画班」に異動している。山崎は、昭和四八年九月の労組結成に参加し、第一期は副委員長を務め、翌四九年一〇月からの第二期は代議員となつている。
ところで、学習編集部の人員及び労組員の推移は次のように変化している。
表4 学習編集部の人員の推移 ( )は労組員数
区分
四八・九部内異動後
四九・一部内異動後
五一・一当時
五二・三当時
全部員
〔 〕は管理職
六一〔五〕
(三三)
五九〔五〕
(三〇)
―
(一五)
―
(八)
本誌部門
三六
(二〇)
三〇
(一二)
―
(四)
―
(三)
本誌以外の部門
(臨増班、企画班等)
二〇
(一三)
二四
(一八)
―
(一一)
―
(五)
(注) 五一・一及び五二・三当時被解雇者山崎を含む。
(2) 田口精男は、昭和四六年三月に入社し、同年六月科学編集部に配属され、「四年の科学」を担当し、昭和四八年一〇月の部内異動で「サイエンス・エコー」の担当に、同年一二月の部内異動で「図解班」に、翌四九年一二月(本件応援出向期間中)の部内異動で「企画班」に異動している。田口(精)は、労組結成に参加するとともに、第一期は代議員、第二期は執行委員を務めている。
ところで、科学編集部の人員及び労組員は次のように推移している。
表5 科学編集部の人員及び労組員の推移
区分
四八・六当時
四八・一〇部内異動後
四八・一二部内異動後
四九・一二部内異動後
五一・一当時
五二・二当時
全部員
〔 〕は管理職
四九〔二〕
四八〔二〕
(二一)
四八〔四〕
(二二)
四七〔三〕
(二〇)
―
(一二)
―
(五)
雑誌部門
(各年の科学サイエンス・エコー)
三九
三七
(一七)
三二
(一五)
三二
(一三)
―
(六)
―
(二)
非雑誌部門
(教材、図解、企画等)
八
九
(四)
一二
(七)
一二
(七)
一〇
(六)
―
(三)
(注) 五一・一及び五二・二当時被解雇者田口(精)を含む。
(3) 昭和四九年八月会社は、前記4の(3)の第二期応援出向を計画し、全社に協力を求め、編集制作部門から九名の対象者を選考して、同月二三日、対象者に九月一日から三カ月間の組織開発室への応援出向を内示した。九名のうち従組員の三名を除き、労組員六名は、次のような対応をした。
表6 応援出向指示に対する労組員の対応
氏名
所属
労組の役職
対応
山崎喜世雄
学習編集部 企画班
労組副委員長
指名スト
福元佐次
〃 〃
―
九・一八より応援出向
田口精男
科学編集部 図解班
労組代議員
指名スト
荒川昭男
〃 四年の科学
―
九・一八より応援出向
末包鉄郎
〃 サイエンス・エコー
―
八・三〇労組脱退して応援出向
秋山某
教養出版部
―
八・三〇退職
内示に対して、山崎、福元は上司の学習編集部長村田実に、田口(精)、荒川は上司の学習科学編集局次長黒川巌(科学編集部長兼任)に、それぞれ応援出向者として人選された理由等を質問し、編集制作業務から長期間はずされることは納得できない、とくに山崎、田口(精)は組合役員としての活動に支障があるとして、労組と交渉してほしい旨申し入れた。
(4) 八月二三日労組は、「今回の長期応援出向の理由、目的とその規模、期間及び対象者のうち労組員の氏名の明示並びに労組員の出向配転に関する事前協議を求める」旨の文書を提出した。これに対して同月二八日会社は、「今回の応援出向は五〇〇万部達成のためであり、今年いつぱいの期間をとおして三〇名ぐらいであり、労組員の氏名は慣行上言う必要がなく、事前協議の要請に応ずるつもりはない」旨文書で回答した。翌二九日労組は、<1>組織開発室の具体的現況、<2>応援出向者の労働条件、<3>下記(5)の従組に示した見解が労組員にも適用されるか、について質問するとともに、団体交渉を申し入れた。これに対して、同月三〇日、会社は、<1>は八月二九日に社内に周知してあり、<2>は月二回単位のローテーシヨンを原則とし、手当を支給する、<3>の異動等のルールについては、要求提出があれば話し合う、と回答した。
(5) 他方、会社と従組は、八月二七日の交渉において、応援出向について「本人の納得を得る過程でトラブルを生じた場合は、<1>指示日を遡る三日前に組合に通知し、組合が本人から事情を聴取したあと、<2>組合からの申入れがあれば、会社は交渉に応ずる、<3>その場合の交渉期間は指示業務の緊急性を損わない範囲で許された期間とする」との確認を行い、従組は、翌二八日に配布した「従組ニユース速報」で確認内容を情宣している。
(6) 九月二日(月曜日)、山崎ら四名が応援出向の指示に従わなかつたところ、会社は同人らに同日以降自宅待機を命じた。
同月九日学習編集部の有志三九名は、応援出向等について生産懇談会(部内連絡会)を開催するよう求める要望書を村田部長に提出した。しかし、同部長は部全体の生産懇談会を開催しなかつた。
(7) 九月五日及び一二日に開催された団体交渉において、労組は、二週間の応援出張を主張したが、会社は、最低一カ月が必要で、現在応援出向を指示されている者について期間満了後元の職場へ戻る保障はできず、翌年以降の応援出向は不明である等と述べるとともに、「九月一七日午前九時までに出向に応ずる旨の態度表明がない限り、重大な人事上の措置をとらざるを得ない」旨発言して、交渉は行き詰まつた。
九月一七日労組は、<1>山崎ら四名の応援出向を二週間の応援出張に変更すること、<2>対象者に再度の応援出向を命じないこと、<3>人事の事前協議制を確立すること等を内容とする要求書を提出し、団体交渉を申し入れた。同日会社は、<1>の変更はできず、<2>は確約できず、<3>はできない旨回答した。
労組は、福元、荒川は応援出向の指示に従うが、山崎、田口(精)は拒否する旨一七日夕刻口頭で、翌一八日文書で、会社に通知し、一八日には福元、荒川の家庭の事情等応援出向の条件について、会社と話し合いを行つた。
また、一七日労組は、山崎、田口(精)を翌一八日指名ストに入れる旨通告し、同人らは同日以降本件懲戒解雇がなされる昭和五〇年四月一五日まで連日指名ストをくり返した。
なお、九月一八日守る会は、「我々は出向拒否社員の解雇を要求する」と題し、「出向を拒否する君たちは企業の破壊者だ」、「出向拒否の労組員を学研からタタキ出そう」等と述べたビラを配布した。
(8) 一一月三〇日山崎ら四名の出向期間が終わり、福元、荒川は元の職場に戻された。他方、応援出向を拒否し、指名ストを行つていた山崎、田口(精)は、一二月二日(月曜日)に出勤したところ、会社は同人らに同日から二七日までの第二次応援出向を指示した。指名ストを続け、応援出向に応じないまま第二次応援出向期間が満了した一二月二八日、出勤した田口(精)は、上記(2)の部内異動先の科学編集部企画班において編集長と来年度の業務を打ち合わせた。昭和五〇年一月六日出勤した山崎、田口(精)に対し、会社は同日から三一日までの第三次応援出向を指示し、その後も二月三日から二八日までの第四次、三月三日から二二日までの第五次、三月二四日から四月一一日までの第六次、四月一四日から五月二日までの第七次の各応援出向を指示した。しかし、山崎らはこれを拒否して指名ストを続けていたところ、四月一五日会社は、七次にわたる応援出向の業務命令に服さず、会社の秩序正しい業務運営を妨げたことを理由として、山崎、田口(精)を懲戒解雇に付した。
(9) 古岡秀人社長は、昭和五〇年一月六日付社内報「学研ライフ」の年頭あいさつにおいて、「売上げの拡大のためには、……編集・制作面の社員が、“応援のために出向”することが要請される。一部の分子が、対立のための対立、反対のための反対を唱えて、応援出向に応じない態度をとつていることは、学研の社員としての“良識”を疑うものである」と述べている。
(10) 昭和五一年四月、会社は、組織開発室が所期の成果をあげたとして同室を廃止した。
ところで、表3の応援出向人員数は、特定の時期に何名の従業員が応援出向を指示されていたかを表わしているものである。そこで、応援出向を指示された対象者の人数、同一人が二回以上出向を指示された場合はその延べ回数、編集部門からの出向対象者数及び労組員の出向対象者数を示すと、次表のとおりである。
表7 応援出向対象人数
期間
会社の応援出向者<1>
<1>のうち編集制作部門の応援出向者<2>
( )内は<2>/<1>×一〇〇
<2>のうち労組員の応援出向者<3>
( )内は<3>/<2>×一〇〇
出向対象者
延出向人数
出向対象者
延出向人数
出向対象者
延出向人数
四七・九~四八・八
八四
〔八八〕
一六五
〔一七〇〕
二四(二九)
〔二八(三二)〕
三〇(一八)
〔三五(二一)〕
四(一七)
〔(一四)〕
四(一三)
〔(一一)〕
四八・九~五〇・五
七六
〔八三〕
一二八
〔一三五〕
四一(五四)
〔四八(五八)〕
七五(五九)
〔八二(六一)〕
二五(六一)
〔(五二)〕
五八(七七)
〔(七一)〕
五〇・六~五〇・八
三
三(一〇〇)
一(三三)
一
注:(1) 四七・九~四八・八の期間の労組員とは、結成後労組に加入した者
(2) 〔 〕は、学研書籍からの応援出向を含めた人数
6 天野の市場開発室配転及び懲戒解雇
(1) 天野隆介は、昭和四八年三月に入社し、約三カ月間組織開発室で営業研修をうけた後、レジヤー出版部(後に昭和四九年一〇月レジヤー出版事業部と、さらに昭和五〇年一二月頃レジヤー出版部と改称)に配属され、ボウリング雑誌「ガツツボウル」の編集制作業務に従事してきた。また、昭和四八年九月同人は、労組結成に参加してその組合員となつた。
(2) 昭和四九年九月会社は、業績不振の「ガツツボウル」を同月発行の一一月号をもつて廃刊とすることに決定し、同月一九日同誌担当の編集員三名(従組員である編集長本多並びに労組員である天野及び川上)に対し、一〇月一日から一カ月間、組織開発室へ応援出向するよう内示した。川上は一〇月一日から応援出向に応じ、天野は一〇月一日応援出向を拒否して指名ストを行つたが、翌二日天野も不同意通告書を提出して応援出向に応じた。出向期間満了後会社は、一一月五日本多に対し週刊誌「旅行ホリデー」に、同月七日川上に対し季刊のテニス雑誌「ワールドテニス」に、それぞれ部内異動を行つた。
また、「ガツツボウル」を担当していた稿料払のフリーの編集員(アルバイトといわれ、原則として特定の雑誌の編集員として採用され、その雑誌以外に異動されることはない。)大西某は、一一月に「ワールドテニス」へ部内異動している。
一方、一一月七日天野は、レジヤー出版事業部長今井健一郎から部内で配属できないので部外に配転する、配転先は人事部で聞くようにといわれ、同日伝人事部長に配転先の希望を述べた。
(3) 一一月一一日会社は天野に対し、新設する市場開発室へ配転する旨内示したが、同人は同室の業務内容が不明なので回答できないと述べた。
しかし、翌一二日会社は、編集総務部内に市場開発室を新設し、編集総務部副部長永野豊を室長兼務とし、室員に天野を発令した。
同月一三日伝人事部長及び永野室長は、天野に対し市場開発室設置の目的は高校マーケツトの調査であり、当面の業務は高校学習参考書「ベストコース」、「アンカー英和辞典」などを持つて全国の高校を回り、推薦、採択について教師と話し合い、その話し合いの中から商品の内容の改善すべき点及び新しい企画の可能性のデータを収集することである等と説明した。これに対して天野は、伝部長と永野室長の説明にくいちがいがあること、業務内容に営業部門のような面があること等から、配転は応諾できないと考えて、労組に相談するとともに、同月一四日から一九日まで有給休暇をとつた。
(4) 一一月一五日会社は、「市場開発室の新設について」と題する一二日付の社達を全従業員に配布した。この社達では、「編集制作業務の将来の企画可能性、新規分野の開発ならびに現行商品の市場可能性の追求、潜在需要の開拓など、企業をめぐる市場開発の課題を、製作部門の立場から、実践的に推進し、商品製作の質的向上確保に反映させることを目的として……市場開発室を新設した」と述べている。
(5) 一一月一五日労組は、会社に対し市場開発室設置の目的、業務内容、規模及び今後の見通し並びに天野を配転した理由を質問する文書を提出した。
同月一八日会社は、設置目的は一一月一二日付社達で明らかであり、業務は新規企画、新規分野の開発研究と現行商品の市場面からみた点検、検討であり、将来は数名のスタツフで編成したい、天野配転はレジヤー出版事業部で与える仕事がないからである等の回答を行つた。
同日労組は、天野配転について団体交渉を申し入れるとともに、地労委にあつせんを申請し、翌一九日会社に同問題が解決されるまで天野をレジヤー出版事業部で就労させるよう申し入れた。
(6) 一一月二〇日天野は、出勤してレジヤー出版事業部の配転前の席で就労しようとしたところ、会社は同部での就労を禁じ、配転先の市場開発室で就労するよう業務命令を発し、翌二一日以降も連日同旨の業務命令を発したが、天野はこれに応じなかつた。
(7) 一一月二〇日上記(5)の申請に基づき、地労委で第一回あつせんが行われ、次回あつせんを一二月二日に予定した。また、労使間では翌一一月二一日に事務折衝が行われ、同月二七日の団体交渉で、労組は天野配転が本人の同意に基づかない職種の変更であつて、労組弾圧であるとして、配転を撤回するよう求めたが、話合いは平行線のまま打ち切られた。同日労組は、この問題について再度団体交渉を申し入れた。
(8) しかし、一一月二九日会社は、正当な理由がないのに配転命令を拒んでいることを理由として、天野を懲戒解雇に付した。
(9) 天野は、東京地方裁判所に地位保全の仮処分を申請し、昭和五三年一一月三〇日同裁判所は、申請を認容する判決を言い渡した。
7 田口(繁)ら五名の市場開発室配転及び懲戒解雇
(1) 隔週刊誌「旅行ホリデー」は、昭和四八年一〇月創刊当初から業績不振であり、昭和四九年一一月には累積赤字が一億九千万円に達し、大幅な経費節減を迫られた。そこで会社は、「旅行ホリデー」編集担当者一三名を一〇名に削減する方針をたて、余剰人員三名を同誌所属のレジヤー出版事業部から部外に配転することとし、「編集経験年数の短い者」という人選基準を適用して、田口繁富味、宮下弘二、柿本哲夫(いずれも労組員)を配転対象者に選んだ。
(2) 昭和四九年一一月一五日田口(繁)、宮下は、今井部長から同月一八日(後に二五日と変更)より一二月二〇日まで組織開発室へ応援出向を指示され、同時に応援出向後は上記の事情により部外に配転する旨内示された。
田口(繁)らは、二五日以降も応援出向に応ぜず、レジヤー出版事業部で就労していたため、会社は、同日以降連日応援出向業務に就くよう業務命令を発した(昭和五〇年一月二四日会社は、同人らを業務命令に違反したとして表1の<28>の出勤停止処分にした。)。
前記6の(7)の一一月二七日の団体交渉において、田口(繁)らの応援出向問題も話し合われたが、歩寄りはみられず、同月二九日には、前記6の(8)のとおり、天野が懲戒解雇に付されたため、翌三〇日から田口(繁)らは指名ストに入つた。
(3) 一二月二三日、応援出向期間が満了して出勤した田口(繁)、宮下に対し、会社は市場開発室へ配転を命じ、翌二四日永野室長が市場開発室の業務内容を説明した。田口(繁)らは、市場開発室の業務は営業であり、本人の同意を得ていない異職種配転であり、労組弾圧の人選であるとして配転を拒否し、同月二六日から指名ストに入つた。
(4) 一二月二日柿本は、今井部長から同月九日より二七日まで組織開発室へ応援出向を指示され、同時に部外への配転を内示された。柿本は、応援出向を拒否して指名ストに入り、同月二八日出勤したところ、伝人事部長から市場開発室へ配転する旨内示された。
昭和五〇年一月九日会社は、出勤した柿本に対し同月六日付で市場開発室へ配転を命じたが、同人は田口(繁)らと同様の理由でこれを拒否し、翌一〇日から指名ストに入つた。
(5) 昭和五〇年一月一六日会社は、編集総務部編集管理課主査の篠原健三を市場開発室長に発令した。しかし、篠原は編集業務の経験がなかつたため、室長を補佐する要員が必要となつた。そこで、市場開発室を統括する編集総務部の永野副部長(一月一六日付で室長兼務を解かれていた。)は、同月二〇日頃の編集部長会において室長補佐を推薦してほしい旨要請した。
(6) 藤崎和男は昭和三九年五月に入社し、高校雑誌編集部に配属され、「高三コース」等の編集制作業務に従事し、昭和四八年八月から翌四九年一月末まで病気休暇をとり、同年二月一日復職して、「高二コース」付録班に配属された。また、同人は同年一二月二〇日頃労組に加入した。
昭和五〇年一月一一日、同部内で組織変更が行われ、藤崎は新設の「企画開発学科担当」として部内異動し、同月二〇日から一週間和歌山へ応援出張した。
(7) 上記(5)の要請をうけた高校雑誌編集部長高木俊雄は、副編集長である藤崎を市場開発室室長補佐に推薦することとし、二月五日同人に対し同室への配転を内示した。
二月一六日会社は、藤崎の市場開発室配転を発令したが、藤崎は配転を拒否して翌一七日から指名ストに入つた。
(8) 細谷晶は昭和三八年四月に入社し、科学編集部に配属され、昭和四〇年九月編集長となり「五年の科学」等を担当し、昭和四八年五月の前記2の(2)のリコール事件当時平野の上司であつたところ、同年六月、科学書籍企画開発室に配属された。
また、細谷は同年九月の労組結成に参加して副委員長となり、翌四九年一〇月からは執行委員となつたが、同年一一月頃から次第に企画の仕事からはずされて、校正等の業務を命ぜられるようになつた。
(9) 昭和五〇年三月会社は、上記(7)のとおり、藤崎が市場開発室に赴任しなかつたため、新たに室長補佐として細谷をあてることとし、四月七日黒川局次長は細谷に市場開発室への配転を内示した。これに対して細谷は、配転には応じられないと断り、同日より一一日まで有給休暇をとつた。
そこで会社は、四月九日付の配達証明郵便により細谷に対し、四月一四日付で市場開発室へ配転する、同日より同室で就労するよう命ずる旨の異動命令書を送付した。細谷は配転を拒否して、一四日指名ストに入つた。
(10) 四月一五日会社は、正当な理由がないのに配転命令を拒んでいることを理由として、田口(繁)、宮下、柿本、藤崎、細谷を懲戒解雇に付した。
(11) なお、会社は、昭和五〇年一月一三日頃の編集部長会で、「市場開発室設立の背景とその職務機能」と題する文書を配布した。この文書には、前記6の(4)の内容をふえんした市場開発室設置の背景事情とその目的、業務内容、組織体制等が詳細に説明されている。
さらに、会社は、同年二月五日付の社内報「学研ライフ」において、「「市場開発室」発足の背景とその職務について」と題し、市場開発室設置の背景、その業務、調査の手法等を詳細に説明し、従業員に配布した。
(12) また、市場開発室では、上記(5)のとおり、篠原が室長となつてからも同人が編集管理課の業務を一部兼務し、さらに、昭和五〇年二月一六日に映像局から古川照夫(従組員)が配転されたが、同人も旧職場に仕事をもつており、実質的な業務運営はなされていなかつた。
同年六月一日人事部長付から長谷川正敏が、同月二三日高校雑誌編集部から室長補佐として西村紘輝(労組員)が、七月九日実用図書出版部から中村順子(労組員)が、それぞれ市場開発室に配転されて五名の室員となつた。
市場開発室では、昭和五〇年七月末から一〇月初めにかけて、進学教室、通信添削の現状と市場進出の可能性を調査して報告書をまとめ、また、一〇月中旬から昭和五一年二月にかけて、八〇校の高校を対象に教師を訪ね、「アンカー英和辞典」に対する認識の実態調査を行つて報告書をまとめ、その後、成人分野における新路線の企画可能性、ライフステージにおける趣味の選択傾向とそれに対応できる企画の成立条件の探索、レジヤー分野での雑誌企画成立の条件探索等のテーマで調査を行い、報告書をまとめている。
8 労組三役四名の懲戒解雇
(1) 前記5の山崎らの応援出向拒否、同6の天野の配転拒否及び同7の田口(繁)らの配転拒否が行われた当時の労組三役は次のとおりである。
表8 労組第一期、第二期の三役
四八・九~四九・九(第一期)
四九・一〇~五〇・九(第二期)
委員長
小峰光男
窪田幹雄
副委員長
細谷晶 山崎喜世雄
小峰 小檜山範男
書記長
安西剛
安西
(2) 昭和五〇年四月一五日会社は、前記5及び7の応援出向及び配転を拒否させるために違法な指名ストを企画、立案し、実行させた責任があることを理由として、上記第二期執行部三役四名を懲戒解雇に付した。
(3) 会社は、小峰の解雇理由について上記のほかに暴力行為をあげているが、その経緯は次のとおりである。
<1> 小峰は昭和四二年七月に入社し、学習書籍編集部に配属され、その後自然科学編集部等で編集業務に従事していたところ、昭和四八年一月から三月までの間応援出向を指示され、また、前記4の(4)の<1>のとおり、昭和四八年八月一日、新設された理工学図書事業室に配属され、翌四九年一月一六日、同室が廃室されて人事部長付に、同月二四日には編集総務部長付に配属された。さらに、小峰は二月一日から城南支社へ応援出向を指示されたが、これを拒否して二月一二日から指名ストを行い、五月一七日地労委で和解が成立してから、六月末まで関東総局付で組織開発室に応援出向し、七月一日編集総務部長付に復帰して、国語辞典の校正等の業務に従事していた。
<2> この間に小峰は、前記2の(1)の不払グループに参加して、ビラ配布を行い、昭和四七年一〇月二八日に譴責処分をうけ、労組結成後第一期は委員長及び第二期は副委員長となつたところ、前記表1のとおり、出勤停止九回、譴責五回の懲戒処分をうけている。
<3> 昭和五〇年四月四日(金曜日)、編集総務部は慰安旅行の特別休暇日であつたが、旅行に参加しなかつた小峰は、午前一一時二〇分頃七階の自席に労組関係の書類をとりに入館した。同人は六階で伝部長に見とがめられてどこに行くのかと聞かれ、荷物をとりに行くと答えたところ、同部長は小峰の席までついて行き、用件が済んだら早く館外に退去するよう求めた。その際、小峰が同年四月二日付の警告書をとり出し、「これはいらないから返す」と述べて伝部長に渡し、同部長が「いらないなら捨てよう」と述べて、屑かごに捨てたため、小峰はそれをひろい上げて「これは持つていけ」等と言いながら伝部長に押しつけたりするやりとりがなされた。そこで伝部長は、総務部副部長小笠原震一郎に電話をし、小笠原ら職制のほか守衛三名の計五~六名が、編集総務部の部屋から小峰を退去させようとした。このため小峰は、編集総務部及び隣室の実用図書出版部(同日は業務中)を逃げまわり、その間に廊下で転倒したりした。結局小峰は、一一時四〇分頃職制らによつて六階まで降されたが、転倒させたのは伝部長であるとして謝罪を求め、六階階段の踊場の手すりにしがみついて抗議をくり返し、一二時一〇分頃に至り守衛らによつて館外に退去させられた。
このトラブルにより、小峰は尾骨部打撲等で全治一週間の負傷をしたほか、人事部主査高橋孝太郎は口腔内挫創で全治五日間の、総務部長山崎健一は右手擦過傷で全治四日間の、伝人事部長は右手指擦過傷等で全治一週間の負傷をした。
<4> 会社は、小峰の解雇理由として、上記(2)のほか上記<3>のように上司の指示命令に従わず、職場の秩序を乱した上、人事部長ら三名に全治四日以上の傷害を与える暴力行為を行い、以前にも暴力行為あるいはその類似事由で三回出勤停止の処分をうけている(表1の<1>、<10>、<14>)等反省の色がないことをあげている。
9 青木の懲戒解雇
(1) 青木は昭和四三年三月に入社し、高校雑誌編集部に配属され、その後百科編集部、企画管理部及び週刊グラフ百科編集部で編集制作業務に従事し、前記4の(4)の<1>のとおり、昭和四八年九月初め頃新設された理工学図書事業室に配属され、同室が廃止されて翌四九年一月一六日、前記8の(3)の<1>の小峰とともに人事部長付に、同月二四日には編集総務部長付に配属された。さらに、青木は二月一日から組織開発室に応援出向を指示され、同月中は名古屋支社に応援出向した後、三月一日から指名ストに入り、五月一七日地労委で和解が成立してから六月末まで組織開発室に応援出向し、七月一日編集総務部長付に復帰して国語辞典の校正等の業務に従事していた。
(2) この間に青木は、小峰らとともに前記2の(1)の不払グループに参加してビラ配布を行い、昭和四七年一〇月二八日に譴責処分をうけた。
なお、青木は労組結成に参加して、第一期は組織部副部長、第二期は代議員となつており、また、前記表1のとおり出勤停止五回の懲戒処分をうけている。
(3) 昭和五〇年三月一一日労組は、本社横の構内入口石段付近で春闘のビラを配布した。ビラ配布に参加していた青木は、午前九時一五分頃池上線長原駅方向から出勤して来た青木部長を見かけて、構内入口から約六〇メートル離れた交差点付近まで赴いた。高木部長に接近した青木は、波多野孝史ら数名の労組員とともに、高木部長の前方に立ちふさがるなどしながら、前記7の(7)の藤崎の配転について、その理由をしつように問い質すと同時に抗議した。そのため高木部長は、付近の民家の門内に入つたりした。本社構内への入口石段に達した高木部長が石段を昇ろうとしたところ、その三段ある石段の下部及び上部には多数の労組員がおり、石段の一段目には青木が立つて抗議していたため、高木部長は青木の左側を通つて石段の上部に至つたが、その際同部長は、左足下腿部を誰かに蹴られたので、ふり返りざま石段下に降りていた青木に対し「青木」と怒鳴り、九時二五分頃本社構内に入つた。
高木部長は、午前一一時頃病院に赴き診察してもらつたが、湿布薬を渡され、家に帰つて冷すよういわれた。その際の診断書では、「右胸部及び左下腿部打撲全治五日間」とされていた。
なお、同日午後二時すぎ会社は、社内放送で同日朝青木らが高木部長に暴力行為をふるつたと放送した。青木は社内放送について伝部長及び高木部長に電話で抗議したところ、会社は青木の通話時間二〇分間の賃金をカツトした。
(4) 四月一五日会社は、三月一一日通勤途上の高木部長に暴力をふるい全治五日間の傷害を加えたほか、前記表1の<4>、<17>で出勤停止処分をうけているにもかかわらず、一向に態度を改めないばかりか、昭和四八年一〇月以降二〇数件にわたる暴行脅迫を行つていることを理由として、青木を懲戒解雇に付した。
10 水谷の懲戒解雇
(1) 水谷は昭和四二年六月に入社し、事典編集部(昭和四六年九月に自然科学編集部と改称)に配属され、学習図解百科等の編集に従事し、昭和四四年一〇月から「グランド現代百科事典」の化学分野の全部並びに工学分野及び農学分野の一部の編集を担当した。同事典は、昭和四九年二月に最終の二〇巻が完結して、同年四月に索引の作成も終了し、水谷は同年六月以降スリーチエツク問題集等の編集業務に従事してきた。
(2) 水谷が担当した「グランド現代百科事典」の化学分野の執筆者の一人である横浜国立大学教授武藤覚の原稿について入稿状況をみると、一六巻までは締切日前又は遅れても一週間程度であつたが、昭和四八年一月末締切の一七巻から遅れがちとなり(一七巻は一部一月一一日以前に入稿しているが、一部は五月頃入稿、三月末締切の一八巻は七月初め頃入稿、五月末締切の一九巻は八月初め頃入稿)、二〇巻は七月末締切で、武藤教授担当の九項目のうち三項目は一〇月一二日に、六項目は同月二三日に入稿している。
なお、昭和四八年一〇月一八日頃、自然科学編集部内で武藤教授担当分を含めて二〇巻の入稿遅れが問題になり、同部次長本間三郎が同日電話をしたところ、武藤教授は二〇日、二一日の週末を利用して執筆するので二二日に受取りに来てほしいと回答し、同教授の原稿は翌二三日入稿したものである。
(3) ところで、昭和四九年七月頃自然科学編集部で企画した「〇年の図解理科」の執筆者に武藤教授が入つていなかつたところ、同教授の同僚の横浜国立大学関教授からそのことを質された自然科学編集部長尾沢栄三は、「武藤教授は執筆が遅いからである」旨回答した。そこで関教授は、武藤教授に対し「君は非常に原稿が遅いということだが、どういうことか、ルーズではないか」、「グランド現代百科事典の原稿が非常に遅れて、学研では困つている」旨述べた。このため武藤教授は、同年八月頃会社を訪れた際、科学編集部編集長菊地正好に対し、「水谷から原稿を遅らせるよう要請されて、実は私はちよつと困つている」旨を話したところ、菊地編集長は、科学編集部副部長角宮某にこれを報告した。さらに、同年一一月頃角宮副部長は、尾沢部長に対し「水谷が武藤先生に入稿を遅らせるよう要請したそうじやないか」と述べた。
そこで、会社は、入稿遅れについて調査を行うとともに、同年一二月四日尾沢部長及び本間副部長は、武藤教授を訪ね、事情聴取を行つたところ、同教授は水谷から昭和四八年頃原稿を故意に遅らせるよう要請されたことがある旨述べた。
昭和五〇年一月九日、尾沢部長が水谷からも事情聴取したところ、水谷は武藤教授に要請した事実はないと述べた。
同年二月七日、尾沢部長は横浜国立大学の研究室に武藤教授を訪ね、尾沢部長が作成した「武藤先生談話」という文書を提示して、同教授に署名、押印を求めたところ同教授はこれに応じた。その文書には次のように記載されていた。「昭和四八年春ごろ、水谷から、「会社の配転意図に対し、原稿を遅延させて業務を延引し、配転を免れたいと思つています。原稿の締切日は守る必要はありません。たとえ締切日以前に原稿をいただいても入稿をおくらせることがあります。会社から催促があつた場合、すでに自分にお渡しいただいたものであつても、まだ書いていないとお答えください。ただし、これは先生のお考えに任せますので、渡しずみであるとお答えになつても仕方がありません。また、先生の所に原稿受取に行くといつて会社を出て、実際は行かないことがあります。会社から問合せがあつたなら、受取にきたといつてください。」との要請を受けた。」
昭和五〇年三月一七日会社は、調査委員会を設置し、水谷に弁明の機会を与えた。同人は同委員会の席でも要請の事実はないと主張した。
しかし、四月一〇日会社は、入稿を故意に遅らせるよう要請し、しかも入稿を遅らせて、業務の進行を妨害し、かつ、そのため会社の執筆者起用に混乱を生じさせたこと等を理由として、水谷を懲戒解雇に付した。
(4) なお、水谷は昭和四七年二月、従組批判派の立場から従組職場委員選挙に立候補し(落選)、同年三月から従組組合費の不払を続け、前記2の(1)の不払グループの一員としてビラ配布を行い、同年一〇月二八日に譴責処分をうけた。その後も同人は、不払グループのビラ配布を行い、労組結成に参加して、第一期は執行委員及び第二期は会計監事を務めた。
また、水谷は前記表1のとおり、出勤停止4回(<3>、<12>、<23>、<25>)、譴責二回(<19>、<21>)の懲戒処分をうけている。
以上の事実が認められる。
第2当委員会の判断
1 山崎、田口(精)に対する応援出向指示と懲戒解雇
会社は、山崎、田口(精)に対する応援出向指示及び懲戒解雇が不当労働行為に当たるとした初審判断を争い、同人らを業務上の必要性に基づき応援出向の対象者として人選したことには合理性があるから、本件応援出向指示を不当労働行為ということはできない、したがって、同人らには本件応援出向指示を拒否すべき正当な理由がないにもかかわらず、これを拒否したことは、就業規則第五六条第二号「正当な理由がないのに異動の命令を拒んだとき」、同条第五号「上司の指示命令に従わず職場の秩序を乱したとき」に該当するので、同人らを懲戒解雇に付したものである、また、同人らは本件応援出向を拒否し「指名スト」を行つているが、この「指名スト」は争議行為の手段たる性格を欠き適法な争議行為といえず、業務命令違反を理由とする本件懲戒解雇は不当労働行為に当たらないと主張する。
(1) 前記第1の1の(1)及び(2)の認定のとおり、第二期応援出向当時、会社の全従業員数は約二、一七〇名であり、編集制作部門の約八五〇名の従業員のうち労組員は約二一〇名と約二五パーセントを組織していたものである。また、前記第1の5の(10)認定の表7により、労組結成前とその後における応援出向を指示された者を対比すると、次のような点が指摘できる。
<1> 編集制作部門から応援出向を指示された者は、労組結成前には二四名であり、そのうち労組結成後に労組に加入したのは小峰、那須、富山ほか一名の四名(このうち小峰、那須は労組結成前に不払グループの活動に参加し、会社から処分されていることは前記第1の2の(1)認定のとおりである。)のみであつて、その比率は一七パーセントであるのに対し、労組結成後には労組員の比率は六一パーセントと、労組結成後における応援出向者に占める労組員の比率が高くなつている。
<2> 延出向人数についても、労組結成前は後に労組員となつた者が一三パーセントであるのに対し、労組結成後は労組員が七七パーセントを占め、<1>の傾向がさらに強まつている。
<3> 全応援出向者に対する編集制作部門の対象者の割合をみると、第一期応援出向が含まれる労組結成前には二九パーセントであつたものが、第二期応援出向が含まれる労組結成後は五四パーセントと、編集制作部門からの対象者の比率が高くなつている。
<4> <3>と同様のことは、延出向人数にもみられ、労組結成前には編集制作部門からの対象者の比率が一八パーセントであつたものが、労組結成後にはそれが五九パーセントにまで高まつている。
このように、編集制作部門従業員に占める労組員の割合に比し、第二期応援出向を指示された労組員の割合が高くなつており、会社はことさら労組員を第二期応援出向の対象者として人選したのではないかとの疑いが残る。
(2) 労組結成以来の会社と労組の関係は必ずしも円滑でなく、会社は、前記第1の2の(7)ないし(10)認定のとおり、労組役員をはじめ多数の労組員を、くり返し懲戒処分に付し、また、前記第1の4の(4)の<1>ないし<3>認定のとおり、第一期応援出向のピーク後一年を経過した昭和四九年二月になつて、編集総務部長付の小峰ら三名及び「フローリア」廃刊に伴う八名に、組織開発室や支社への応援出向を指示している。そして、これに関する労組の団体交渉申入れに対して、会社は応ずることなく、同月一八日、異動について労組と話し合う余地がない、該当者が労組役員でも例外ではない旨の文書を配布し、さらに昭和五〇年一月六日付「学研ライフ」では、前記第1の5の(9)認定の記事を掲載している。
また、前記第1の5の(4)、(6)及び(7)認定のとおり、労組及び編集部門従業員が第二期応援出向の規模や期間について不安を抱き、労組が山崎ら労組員の応援出向について、昭和四九年八月二三日以降質問を行い、団体交渉を申し入れたのに対し、会社は、従組との確認事項については要求があれば話し合うとしながら、九月二日から山崎ら労組員四名に自宅待機を命じ、同月五日及び一二日の団体交渉においても、応援出向の必要性や将来の見通しを明らかにせず、労組の提出した対案に応ずることはできず、再度の応援出向を命じないことを確約できないとし、さらに、九月九日に学習編集部の従業員三九名が、第二期応援出向の説明を求めて部内連絡会を開催するよう要請したのに対し、同部の村田部長はこれを開催していない。このように、第二期応援出向について、労組及び労組員が疑惑と不安を抱いたのに対し、会社は、その疑惑と不安を解消する努力を十分尽さないまま九月一七日にタイムリミツトを設け、ともかく応援出向業務につくことを求めている。
これらからみると、労組の活動を嫌悪していた会社が、労組の活動基盤である編集制作部門から全国の支社に出張する応援出向を指示して、労組の弱体化を企図し、労組との対応に硬直的な態度をとり続けたものといわざるをえない。
(3) ところで、会社は、第二期応援出向が業務上の必要性に基づくものであり、対象者に山崎、田口(精)を人選したことに合理性があるから、同人らに対する応援出向の業務命令は正当なものであると主張する。
しかしながら、第二期応援出向は「学習」、「科学」の販売部数の拡張を主眼としたものであり、全社的に組織開発室の業務を支援する必要性があつたとしても、山崎、田口(精)を人選したことには次のような疑問がある。
<1> 学習編集部から人選された労組員は、山崎、福元の両名であるところ、前記第1の5の(1)認定のとおり、同人らは本件応援出向が指示される八カ月前の昭和四九年一月に同部内に新設された「企画班」へ異動されたばかりであるのに、その「企画班」における当面の業務がなかつたから同人らを人選したとする会社の人選理由は首肯しがたい。
しかも、昭和四九年一月の学習編集部の部内異動により、同部内の多くの労組員が本誌から新設の「企画班」又は「先行取材班」に異動されていることは、定期雑誌を編集制作する本誌に比較し、業務の繁閑の多い「企画班」等の本誌以外の部門を新設して、そこに労組員を異動させたうえで、業務の閑な時期に業務が少ないことを理由に応援出向対象者に人選している疑いもないではない。
<2> 科学編集部から人選された労組員は、「図解班」の田口(精)、「四年の科学」の荒川及び「サイエンス・エコー」の末包の三名であるところ、会社は、田口(精)を人選した理由として、「図解班」における業務が一段落したことをあげている。しかしながら、前記第1の5の(2)認定のとおり、田口(精)は科学編集部内において、昭和四八年一〇月「サイエンス・エコー」に、同年一二月「図解班」に異動されているのであつて、「図解班」の業務が一段落したからといつて、三カ月の長期にわたる応援出向対象者に人選したことの合理性は、にわかに首肯できない。また、昭和四八年一〇月及び一二月の部内異動によつて、科学編集部の労組員が主として雑誌部門から非雑誌部門に異動されていることは、比較的業務の繁閑の多い非雑誌部門に労組員を異動させておいて、非雑誌部門の業務の少ない時期に応援出向対象者に人選しようとしたとの疑いもないではない。
なお、田口(精)については、前記第1の5の(8)認定のとおり、第二次応援出向期間が満了した昭和四九年一二月末に同人の科学編集部内の異動先である「企画班」において翌年の業務打合せをしているにもかかわらず、会社が翌年一月になると再び「企画班」における業務がないとして、同人に対し第三次以降の応援出向を指示するなど、その人選に疑問が残る。
(4) 労組は、第二期応援出向につき会社に質問を行い、団体交渉を申し入れ、応援出向が異職種の営業部門たる支社に出張するものであつて、編集者である労組員を分散させて労組の弱体化を企図したものであると反対し、会社と折衝を続けた。
しかし、会社は、前記第1の5の(6)及び(7)認定のとおり、昭和四九年九月二日応援出向の指示に従わなかつた山崎、田口(精)、福元、荒川の四名に自宅待機を命じ、団体交渉において同月一七日までに応援出向に応じなければ「重大な人事上の措置をとらざるを得ない」旨発言した。そこで労組は、福元、荒川については同月一八日から応援出向に応ずることとしたが、現職の副委員長の山崎及び現職の代議員で第一次応援出向期間中の昭和四九年一〇月から執行委員に予定されていいた田口(精)(一〇月から執行委員に就任)については、応援出向に応ずることは組合活動に支障があるとして、応援出向の指示に抗議すること等の目的をもつて、同月一八日から「指名スト」を実施させたものと認められる。
(5) 以上の(1)ないし(4)を総合してみると、労組結成以来会社は、労組を嫌悪し弱体化を企図し、その一環として第二期応援出向者に多数の労組員を人選したものといわざるをえない。
そして、副委員長の山崎及び代議員の田口(精)という労組の活動家に対し、組合活動に支障のある本件応援出向を指示したことは、労組の運営に介入するものであつて、不当労働行為であると判断する。
したがつて、山崎、田口(精)に対する本件応援出向の指示が不当労働行為であると判断されるのであるから、同人らがこの指示を拒否したことをとらえて業務命令違反を理由に、同人らを懲戒解雇に付したこともまた不当労働行為であるといわざるをえない。
(6) なお、会社は編集制作部門からの応援出向に不利益なところがないと主張するが、山崎、田口(精)に対する応援出向の指示は、編集者である同人らが本来の業務を長期にわたつてはなれるものであるから、不利益なところがないとはいえず、会社の主張は失当であり、また、会社は初審命令の判断が、労組員と他の従業員の応援出向の対比において、<1>延出向人数をとり、出向対象者数を採用していないこと、<2>学研書籍からの対象者を除外していることを恣意的であると非難するが、前記第1の5の(10)認定の表7をみれば、会社の非難はあたらない。
さらに、会社は、山崎、田口(精)の「指名スト」が争議行為の目的、態様からみて、適法な争議行為といえないと主張するが、同人らの「指名スト」については後記4判断のとおりであるから、会社の主張は失当である。
2 天野に対する配転命令と懲戒解雇
会社は、天野に対する市場開発室への配転命令及び懲戒解雇が不当労働行為に当たるとした初審判断を争い、市場開発室の設置は、業務上の必要性に基づくものであり、「ガツツボウル」廃刊に伴う余剰人員活用のためにレジヤー出版事業部内で配置できない同人を市場開発室要員に人選したものであり、また、市場開発室は編集総務部に属する編集制作部門であつて「異職種」配転ということはできず、同人にはこの配転を拒否する理由がないものであつて、本件配転は不当労働行為ではない、さらに、同人は本件配転をいつたん了承して一一月一三日に市場開発室の業務に就いたのであり、その後の一一月二〇日に至り本件配転を拒否して旧職場で就労を続けていたため、業務命令違反を理由に懲戒解雇に付したものであつて、不当労働行為には当たらないと主張する。
(1) 前記第1の6の(2)認定のとおり、会社は、昭和四九年一一月に「ガツツボウル」を廃刊した当時、同誌担当の編集長本多を「旅行ホリデー」に、編集員川上を「ワールドテニス」に部内異動したほか、稿料払のフリーの編集員大西某を「ワールドテニス」に部内異動しながら、社員である天野をレジヤー出版事業部では配属先のない余剰人員としている。
したがって、「ガツツボウル」廃刊に伴い、レジヤー出版事業部内で配属できなかつた天野を余剰人員として、市場開発室要員に人選したとする会社の主張には疑問がある。
(2) 前記第1の6の(3)及び(4)認定のとおり、市場開発室設置の目的は、昭和四九年一一月一二日付社達(同月一五日配布)で極めて抽象的に述べられているにすぎず、天野に対する同室の業務内容の説明は同月一三日になされているが、これらの説明から同人が同室の業務を「営業」に近いものと理解したことは無理からぬものがある。そこで、労組が同室の業務内容等を質問したのに対し、会社は、前記第1の6の(5)認定のとおり、レジヤー出版事業部で与える仕事がないからであるとの回答を行い、さらに同(7)及び(8)認定のとおり、地労委であつせんが行われ、次回のあつせんが一二月二日に予定されているのに、会社はその前の一一月二九日に同人を解雇している。その後、会社は、前記第1の7の(11)認定のとおり、市場開発室設置の背景、その業務、調査の手法等について詳細に説明した文書を昭和五〇年一月一三日頃に至り、編集部長会で配布し、また、上記内容を同年二月五日付社内報において、従業員に説明している。
このように、天野及び労組が市場開発室を営業部門で異職種ではないかと疑問をもち、また、労組対策であると抗議しているのに対し、会社がそのような疑惑を解くための十分な努力も払わず、かつ、地労委であつせんが行われ、次回期日が決められているにもかかわらず、その前に同人が赴任しないことを理由に懲戒解雇を行つている。
さらに、天野の懲戒解雇後には、市場開発室の目的、業務内容に疑問をもつている田口(繁)ら労組員を次々と同室に配転しており、同人らが配転を拒否して「指名スト」を行つたところ、同人らを懲戒解雇に付している。
(3) 以上の事情と前記1の(2)判断のような労組に対する会社の対応を併せ考えると、天野をレジヤー出版事業部で配属できないとして市場開発室へ配転する要員に人選したことに疑問があり、しかも、同人が「異職種」配転ではないかと疑念をもつたのに、これを解消する努力もはらわず、会社が本件配転を強行したことは、労組及びその活動を嫌悪し、労組の弱体化を企図して、同人が労組員であるが故になした不当労働行為であると判断する。また、本件配転命令が不当労働行為である以上、その業務命令を拒否して旧職場で就労しようとしたことをもつて、業務命令違反を理由に同人を懲戒解雇に付したことも不当労働行為であるといわざるをえない。
なお、会社は、天野が一一月一三日に本件配転を了承して市場開発室の業務に就いている旨主張するが、前記第1の6の(3)認定のとおり、同人は、市場開発室の業務内容の説明をうけているものの、同室の業務に就いたり、まして本件配転を了承したものとは認めがたく、会社の主張は採用できない。
3 田口(繁)ら五名に対する市場開発室配転と懲戒解雇
会社は、田口(繁)ら五名に対する市場開発室への配転及び懲戒解雇が不当労働行為に当たるとした初審判断を争い、<1>田口(繁)、宮下、柿本は、それまで担当していた「旅行ホリデー」の人員削減に伴い、編集業務の未熟な者として同誌担当からの削減要員とされたものであり、同人らをレジヤー出版事業部内で配属できなかつたので、余剰人員として市場開発室に配転し、そこでの活用を図ろうとしたものであつて不当労働行為とはいえない、<2>市場開発室長に発令された篠原に編集業務の経験がなかつたので、室長の補佐役として編集業務の経験者である藤崎、細谷を配転したものであり、同人らを人選したことには合理性があり、不当労働行為には当たらない、<3>したがつて、配転命令を拒否して指名ストを行つた田口(繁)ら及び藤崎らを業務命令違反を理由に懲戒解雇に付したこともまた不当労働行為に当たらない、と主張する。
(1) 田口(繁)、宮下、柿本の担当していた「旅行ホリデー」は、前記第1の7の(1)認定のとおり、昭和四八年一〇月の創刊当初から業績不振であつたものの、会社は、同年一二月には「ガツツボウル」から従組員青柳某、同山本某を同誌に異動し、前記第1の6の(2)認定のとおり、昭和四九年一一月には「ガツツボウル」から従組員本多を同誌に異動している。
そして、一方で会社は、同月に同誌の人員削減を図るために、田口(繁)ら三名を「編集経験年数の短い者」という基準に該当するとして、余剰人員の配転対象者に人選している。
また、田口(繁)ら三名は、「旅行ホリデー」の創刊準備の段階から同誌を担当しているが、同人らと同期に入社して同誌を担当していた従組員高橋某は、制作進行を担当していることを理由に配転対象者からはずされている。
これらのことを併せ考えると、「編集経験年数の短い者」という基準を適用して、田口(繁)ら三名を配転対象者に人選したことの合理性は疑わしい。
以上の事情と、前記1の(2)判断のような労組に対する会社の対応及び前記2の(2)判断のように天野が市場開発室配転を拒否して懲戒解雇に付されている事情を併せ考えると、レジヤー出版事業部で余剰人員として配転対象者に人選されることに疑問のある田口(繁)ら三名に本件配転を命じたことは、会社が労組及びその活動を嫌悪し、労組の弱体化を企図してなした不当労働行為であると判断する。したがつて、田口(繁)ら三名に対する本件配転命令が不当労働行為であると判断されるのであるから、それを拒否したことをもつて、業務命令違反を理由に同人らを懲戒解雇に付したこともまた不当労働行為であるといわざるをえない。
(2) <1> 前記第1の7の(5)、(7)及び(9)認定のとおり、会社は昭和五〇年一月になつて編集業務の未経験者である篠原を市場開発室長に登用し、室長の補佐役として、編集業務の経験者である藤崎、細谷を同室に配転している。このことには、会社が編集業務に必要な業務を行う部門として市場開発室を新設しておきながら、その室長には編集業務の未経験者を登用し、その補佐役に編集業務経験者が必要であるとして、労組員の藤崎、細谷(その後は西村)を次々と配転していること、また、会社は、同室の設置は余剰人員の活用を目的にしているというが、藤崎らを人選した理由に同人らが余剰人員であるとする会社の説明はなされていないのであるから会社の主張は首尾一貫しないこと、からみると、会社には労組員を市場開発室に集中させようとする意図があつたのではないかとの疑いも残る。
<2> 藤崎が市場開発室に配転された経緯をみると、前記第1の7の(6)及び(7)認定のとおり、会社は同人が昭和四九年一二月労組に加入すると、翌五〇年一月一一日には、「高2コース」付録班から新設の「企画開発学科担当」に部内異動し、それからわずか一カ月も経ない二月五日に、本件配転を内示している。
会社は、藤崎が副編集長として既存雑誌の制作業務を十分遂行できなかつたため「企画開発学科担当」に部内異動したにもかかわらず、異動後も勤務状況は思わしくなく、企画面で積極性がなかつたので、部外に出ることは能力開発を試みるチヤンスと考え、同人を本件配転対象者に人選したものであると主張する。しかしながら、「企画開発学科担当」に異動してから本件配転の内示まではわずか一カ月足らずしかなく、しかもその間に一週間の応援出張が命ぜられている。これらからみると、会社が新設の「企画開発学科担当」の業務に就いたばかりの藤崎を、部内で能力開発させるより、部外に出して能力を開発させることがよいと判断したという説明は首肯しがたく、同人を配転対象者に人選したことの合理性は疑わしい。
<3> 天野の配転及び配転拒否を理由とする懲戒解雇以降、労組員が相次いで市場開発室に配転され、それらの者がこれを拒否している状況において、前記第1の8の(1)認定の表8のとおり、第一期及び第二期の労組三役のうち解雇理由のなかつたのは、第一期副委員長(第二期は執行委員)であつた細谷のみであつた。そこで、会社は、前記第1の7の(9)認定のとおり、細谷に対し昭和五〇年四月一四日付で本件配転を命じ、同人がこれを拒否すると翌一五日に早速同人の懲戒解雇を行つている。これは、細谷が配転を拒否することを見越して配転を命じ、配転拒否に藉口して本件懲戒解雇をなしたものというほかない。
<4> 以上の事情と、前記1の(2)判断のような労組に対する会社の対応及び上記(1)判断のように労組員を次々と市場開発室に配転している事情を併せ考えると、藤崎、細谷を市場開発室に配転したことは、会社が労組ないしその組合活動を嫌悪し、労組の弱体化を企図して、同人らが労組員であることの故になした不当労働行為であると判断する。
したがつて、藤崎、細谷に対する本件配転命令が不当労働行為であると判断されるのであるから、それを拒否したことをもつて、業務命令違反を理由に同人らを懲戒解雇に付したこともまた不当労働行為であるといわざるをえない。
(3) なお、会社は、田口(繁)らの「指名スト」につき、前記1の(6)と同旨を主張するが、同所で判断したとおり、会社の主張は採用できない。
4 三役四名に対する懲戒解雇
会社は、小峰ら労組三役四名の懲戒解雇が不当労働行為に当たるとした初審判断を争い、小峰ら労組第二期執行就は、山崎ら二名及び田口(繁)ら五名に対する応援出向指示及び配転命令を拒否するために、同人らに「指名スト」を実行させたが、この「指名スト」は、その目的が業務命令を拒否して業務命令違反の責任を回避するためのものであり、その態様が争議の目的を実現してしまうもので、「手段」たる性格を欠いているものであつて、違法な争議行為である、そのような違法争議行為を企画立案し、率先指揮した労組幹部の責任を追及して、小峰ら三役四名を懲戒解雇に付したことは不当労働行為といえない、また 小峰については、上記幹部責任のほかに、昭和五〇年四月四日のトラブルの責任を追及して懲戒解雇に付したものであつて、不当労働行為に当たらないと主張する。
(1) 山崎らに対する応援出向指示及び田口(繁)らに対する配転命令がいずれも不当労働行為であることは前記1及び3判断のとおりである。そこで労組は、これら不当労働行為である業務命令に反対し、山崎らに本件「指名スト」を指令しているが、その「指名スト」は、山崎、田口(精)についてみると、前記第1の5の(6)及び(7)認定のとおり、応援出向の指示に従わない山崎らに対し、会社が自宅待機を命じ、団体交渉において九月一七日までに応援出向に応じなければ「重大な人事上の措置をとらざるを得ない」旨発言し、守る会が「出向拒否社員の解雇を要求する」、「出向拒否の労組員を学研からタタキ出そう」等のビラを配布している状況において行われたものであり、また、田口(繁)、宮下、柿本、藤崎、細谷についてみると、前記第1の6の(6)及び(8)認定のとおり、天野が配転命令を拒否して旧職場で就労しようとしたところ、業務命令違反を理由に懲戒解雇に付されている状況において行われたものである。
このように、本件「指名スト」は、山崎らが応援出向を指示される前の原職場及び配転命令前の旧職場において労務を提供しても、会社がそれを受領するとは考えられず、かえつて、そのことを理由として懲戒解雇などに出るおそれがあつたために「指名スト」の形をとつたものと認められ、実質的には不当労働行為である業務命令を拒否する行為であり、それ自体正当な行為である。山崎らの本件「指名スト」が正当な行為であるから、同人らに対し「指名スト」の実行を指令した労組三役四名の行為も正当な組合活動といわなければならない。したがつて、本件「指名スト」が違法な争議行為であることを前提になされた労組三役四名の懲戒解雇は、その前提を欠き、同人らの正当な組合活動を理由になされたものといわざるをえず、これは不当労働行為であると判断する。
なお、会社は、第二期応援出向において、山崎らと同時に編集制作部門の労組員福元らも応援出向を指示されているのに、労組が「指名スト」を行つたのは山崎、田口(精)のみであるところからみると、応援出向に応じたくない労組員を「指名スト」に入れるという恣意的なもので、労組の「指名スト」は、争議権の濫用であると主張する。
しかしながら、前記第1の5の(3)及び(7)認定のとおり、労組は労組員の第二期応援出向に反対していたものの、一般労組員である福元、荒川については九月一八日から応援出向に応じ、労組役員である山崎及び労組役員に予定されていた田口(精)については、役員としての活動に支障があることを理由として「指名スト」を行つたものと認められるのであつて、会社の主張は失当である。
(2) また、会社は、小峰の懲戒解雇理由として、昭和五〇年四月四日のトラブルをあげている。
同日のトラブルは、前記第1の8の(3)の<3>認定のとおり、小峰が伝部長の退去要請に従わなかつたことから、伝部長ら職制が本社社屋外に退去させようとしたことに端を発し、同人が職制や守衛によつて編集総務部のある七階から六階に降ろされるまでの約二〇分間七階を逃げ回り、さらに、六階の階段踊場で約三〇分間抗議をしたものである。その間、執務中の実用図書出版部等の職場秩序を乱したり、一部業務に支障が生じたであろうことが推認できる。
ところで、小峰が退去要求に応じなかつたことにも問題はあるが、伝部長ら職制及び守衛らの行為も、あまりにも性急な措置であつて当を得ないものがある。したがつて、そのトラブルの責任を小峰のみに負わせることはできないといわざるをえない。
小峰は、前記第1の2の(1)認定のとおり、不払グループの一員としてビラ配布を行い、それに関し譴責処分をうけ、労組結成後は委員長、副委員長に就任して活動し、その活動に関して一四回の懲戒処分をうけているのであつて、会社が同人の組合活動を嫌悪していたものと認められる。
以上のような事情を総合すると、労組を嫌悪していた会社は、労組の中心的活動家である小峰を企業外に排除するため、本件トラブルを奇貨として、同人の責任を追及して懲戒解雇に付したものと認められる。したがつて、小峰の懲戒解雇は、正当な組合活動である「指名スト」を企画立案し、率先指揮したこと及び本件トラブルに藉口してなされたものといわざるをえず、会社の行為は不当労働行為であると判断する。
5 青木に対する懲戒解雇
会社は、青木に対する懲戒解雇が不当労働行為に当たるとした初審判断を争い、同人は昭和五〇年三月一一日、出勤途上の高木部長に対して暴行を加え、傷害を負わせたほか、過去に二回懲戒処分をうけ、昭和四八年以降二〇数件にわたる暴行脅迫行為をくり返しているため、これらを理由に懲戒解雇に付したものであり、懲戒解雇の理由は十分であつて不当労働行為には当たらないと主張する。
(1) 前記第1の9の(3)認定のとおり、昭和五〇年三月一一日青木が出勤途上の高木部長に対して、数名の労組員とともに前方に立ちふさがる等しながらしつように質問、抗議をくり返し、本社構内への入口石段付近で多数の労組員とともに抗議した際、石段の一段目で立ちふさがつたことは、藤崎の配転に対する質問、抗議のためのものであつたとしても、行きすぎの行動といわざるをえない。しかしながら、高木部長の負傷が青木の暴行によるものと認めるに足る疎明はなく、また、青木が同部長に暴行を加えたと認めるに足る疎明は不十分である。
(2) 青木は、前記第1の9の(1)及び(2)認定のとおり、不払グループの一員として活動し、ビラ配布に関して譴責処分をうけ、労組結成後は組織部副部長及び代議員として活動していたものである。会社は、昭和四九年一月青木を小峰とともに編集総務部長付に配属し、二月には応援出向を指示し、応援出向問題が地労委で和解した後、編集総務部長付に復帰してからも、青木が入社以来従事してきた自然科学系統の編集制作業務とは異なる国語辞典の校正等の業務を青木に命じていること、また、前記表1のとおり青木の組合活動に関連した行動等を理由に懲戒処分をくり返していること等からみて、会社は、同人の組合活動を一貫して嫌悪していたと認められる。
(3) 会社は、青木の懲戒解雇理由として、上記高木部長とのトラブルのほかに、前記表1の<4>及び<17>の懲戒処分をうけているにもかかわらず、態度を改めないばかりか、二〇数件の暴行脅迫行為をくり返していることを主張する。しかしながら、同表の<4>及び<17>の懲戒処分は団体交渉要求あるいは処分に抗議する際に派生したトラブルを理由とするものであり、その他会社の主張する暴行脅迫も、労組の組合活動に関連して生起したトラブルであつて、その一部には組合活動として行きすぎの行動がなされたと推認できるが、いずれも暴行脅迫と認めるに足る疎明は不十分である。
(4) 以上の事情を総合すると、青木の高木部長に対する抗議行動は一部行きすぎの点が認められるものの、それは、労組が反対している市場開発室への配転対象者として、同部長が責任者である高校雑誌編集部から藤崎が人選されたことに対する質問、抗議のためのものであり、それらは約一〇分間程度のものであり、しかも高木部長の負傷が青木の暴行によるものと断定する十分な疎明もないのであるから、これをもつて懲戒解雇の相当な理由とは認めがたい。したがつて、本件青木に対する懲戒解雇は、同人の組合活動を嫌つていた会社が、他の労組員の懲戒解雇を行うに際して同人も企業外に排除しようとして、高木部長に対する暴行等に藉口して行われたものとみるのが相当であり、これを不当労働行為に当たるとした初審判断は相当である。
6 水谷に対する懲戒解雇
会社は、水谷に対する懲戒解雇が不当労働行為に当たるとした初審判断を争い、水谷が「グランド現代百科事典」の原稿の入稿遅れを企画し、武藤教授に要請して現に入稿を遅らせ、同事典の編集制作業務を妨害したのみならず、同事典完結後は同教授に執筆の依頼を差し控える措置をとつており、それは会社の執筆者起用を誤まらせるところとなつたものであり、このような業務妨害を行つた水谷を懲戒解雇に付することは当然であつて、不当労働行為には当たらないと主張する。
これに対し、労組は、水谷には武藤教授に要請して業務進行を妨害する動機がなく、業務進行を妨害した実態もなかつたのであるから、同教授の原稿の入稿遅れは他の執筆者の原稿で入稿が遅れたものと異なるところがなく、業務への影響もなかつたものである。しかも、水谷に要請されたという武藤教授は、本件初審では陳述書を提出したのみであり、本件再審査においては証人となつたものの、水谷の要請の内容、日時、場所を明らかにする証言ができず、武藤証言は措信することができない、したがつて、武藤教授に要請したことを前提とする水谷の懲戒解雇は、同人の組合活動を嫌悪していた会社が、同人を企業外に排除するためになした不当労働行為である、と主張するので判断する。
水谷は、昭和五〇年一月九日の事情聴取以来、本件審査においても、武藤教授に原稿を遅らせるように要請したこともないし、故意に入稿を遅らせたこともないと一貫して主張し、それに沿う立証を行い、また、前記第1の10の(2)認定のとおり、昭和四八年一〇月一八日頃本間次長が電話で督促した際、武藤教授は二二日に受け取りに来てほしいと回答し、同教授の原稿は二三日に入稿している。これらからみると、水谷が原稿を遅らせるよう要請したり、故意に入稿を遅らせたことはなかつたように見えないでもない。
しかしながら、<1>前記第1の10の(2)認定のとおり、武藤教授の原稿はそれまでほとんど遅れることがなかつたのに、水谷が要請したといわれる昭和四八年春頃から遅れていること、<2>武藤教授は昭和五〇年二月七日「武藤先生談話」に自ら署名押印していること、<3>武藤教授は本件再審査に証人として出頭し、水谷に要請された旨を証言していること、<4>水谷は不払グループの一員として活動し、昭和四七年一〇月には譴責処分に付され、同グループの小峰が昭和四八年一月から組織開発室へ応援出向を指示され、同年一月の同グループのビラには同グループのメンバーに対する「出向・配転命令も十分考えられる」旨の記載があること、等からみると、水谷は武藤教授に対して、原稿を遅らせるよう要請したり、入手した原稿について故意に入稿を遅らせることを会社に秘密にしておくよう要請したことがあつたものと推認される。
本件水谷の武藤教授に対する要請は、業務の進行を妨害し、会社の執筆者起用を誤らせ、会社の対外的信用を失墜する行為といわざるをえず、これは懲戒解雇の理由にあたると解される。したがつて、会社が水谷を懲戒解雇に付したことを不当労働行為ということはできず、これに反する初審判断は失当である。
7 救済の方法について
会社は、前記1の山崎ら二名の応援出向拒否及び前記3の田口(繁)ら五名の配転拒否のために、本件懲戒解雇の日までの間、労組が同人らに「指名スト」を実施させているのに、「指名スト」期間中の賃金相当額の支払を命じている初審判断を争い、仮に、本件懲戒解雇がなかつたとしてもスト期間中の賃金カツトは実施されていたであろうし、また、本件応援出向及び配転が不当労働行為に当たるか否か、「指名スト」の目的に業務命令撤回の趣旨が含まれていたか否かにかかわらず、ストライキを実施した者に賃金を支払う義務のないことは明らかであり、ストライキ期間中の賃金相当額の支払を命ずる初審命令は過剰救済の誤りをおかしているものであると主張するので判断する。
山崎らに対する応援出向指示及び田口(繁)らに対する配転命令が不当労働行為であることは、前記1及び3判断のとおりであり、山崎ら及び田口(繁)らは、その業務命令を拒否してそれぞれが懲戒解雇に付されるまでの間「指名スト」を行っている。その「指名スト」は、前記4の(1)判断のとおり、実質的には会社の不当労働行為である業務命令を拒否する行為であり、それ自体正当な行為であるが、応援出向を指示される前の原職場及び配転命令前の旧職場において労務を提供しても、会社がそれを受領するとは考えられず、かえつて、そのことを理由として懲戒解雇などに出るおそれがあつたために、「指名スト」の形をとつたものと認められる。
したがつて、本件「指名スト」期間中の救済としては、同期間中の賃金相当額の支払を命ずることが相当であり、これと結論を同じくする初審命令は相当であつて、会社の主張は採用できない。
以上のとおり、水谷嘉朗に関する再審査申立てには理由があり、労組の同人に関する救済申立てを棄却することが相当であるが、その余の本件再審査申立てには理由がない。
よって、労働組合法第二五条及び同第二七条並びに労働委員会規則第五五条の規定に基づき、主文のとおり命令する。
(別紙三)
命令書
(東京地労委昭和五〇年(不)第九号・昭和五〇年(不)第三九号 昭和五三年三月七日 命令)
申立人 全学研労働組合
被申立人 株式会社学習研究社
主文
一 被申立人株式会社学習研究社は、山崎喜世雄、田口精男に対する懲戒解雇および昭和四九年九月一日以降七次に亘る教育事業本部組織開発室応援出向命令を撤回して、同人らを原職に復帰させ、昭和四九年九月一八日以降解雇の日までの賃金の不就労控除額および解雇の日の翌日以降原職に復帰するまでの間に受けるはずであつた賃金相当額を支払わなければならない。
二 被申立人会社は、天野隆介を配転前の原職相当職に復帰させ、解雇の日の翌日から原職相当職に復帰するまでの間に受けるはずであつた賃金相当額を支払わなければならない。
三 被申立人会社は、田口繁富味、宮下弘二、柿本哲夫、藤崎和男および細谷晶に対する懲戒解雇および編集総務部市場開発室への配転を撤回し、田口、宮下、柿本を配転前の原職または原職相当職に、藤崎、細谷を原職に復帰させ、田口および宮下に対しては昭和四九年一二月二六日以降の、柿本に対しては昭和五〇年一月一〇日以降の、藤崎に対しては二月一七日以降の、細谷に対しては四月一四日以降の、いずれも解雇の日までの間の賃金の不就労控除額および解雇の日の翌日以降原職または原職相当職に復帰するまでの間に受けるはずであつた賃金相当額を支払わなければならない。
四 被申立人会社は、窪田幹雄、小峰光男、小檜山範男、安西剛、青木宏および水谷嘉朗を原職に復帰させ、解雇の日の翌日から原職に復帰するまでの間に受けるはずであつた賃金相当額を支払わなければならない。
五 被申立人会社は、本命令書受領の日から一週間以内に、五五センチメートル×八〇センチメートル(新聞紙二頁大)の白紙に下記のとおり明瞭に墨書して、本社正面玄関付近の従業員の見易い場所に、一〇日間掲示しなければならない。
記
昭和 年 月 日
全学研労働組合
委員長 石川秀弘殿
株式会社 学習研究社
代表取締役 古岡秀人
当社が、貴組合員二名に組織開発室応援出向を命じたこと、同五名に市場開発室配転を命じたこと、同一四名を懲戒解雇したことは、いずれも不当労働行為であると、東京都地方労働委員会で認定されました。今後このような形で貴組合員に不利益を与え、貴組合の運営に介入することはいたしません。この文書は、同地方労働委員会の命令により掲示するものであります。
(注、年月日は掲示の日を記載すること)
六 被申立人会社は、前各項を履行したときは、すみやかに当委員会に文書で報告しなければならない。
理由
第一認定した事実
一 当事者等
(一) 申立人全学研労働組合(以下「労組」という。)は、昭和四八年九月三〇日被申立人会社の従業員七七名が結成した労働組合であり、その組合員は昭和四九年一二月頃二一〇名余に増加したが、現在は約一〇〇名であり、ほとんどの編集制作部門に所属している。そして労組は総評全国一般労働組合東京地方本部に加盟している。
(二) 被申立人株式会社学習研究社(以下「会社」という。)は、肩書地に本社を、全国各地に五三支社を置いて、書籍、雑誌、教材、教育機器等の出版、製作、販売を業とする会社であり、その従業員は約二、一七〇名(昭和五〇年当時)であつて、編集製作八五〇名、一般管理事務五七〇名、営業促進五〇〇名、倉庫運輸二五〇名に分れていた。
(三) なお、労組に所属しない管理職以外の従業員の全員約一、八〇〇名は昭和三三年頃に結成された申立外全学研従業員組合(以下「従組」という。)に所属している。
二 労組の結成とその後の労使関係
(一) 会社は、従組員小峰光男らが従組執行部批判のビラを配布したことに関連して、昭和四七年一〇月三〇日同人ら五名を譴責処分に付し(都労委昭和四七年不第一二五号事件)、さらに翌四八年一月から三月まで小峰ら二名を後記組織開発室へ応援出向させた。また、従組の職場委員平野勝男らが同じく従組執行部批判のビラを配布したところ、上司は同人らの職場委員の地位を奪うリコール署名を集約し、従組委員会は五月一五日この署名を承認して、平野らの職場委員を解任した。
(二) 同年九月三〇日、従組執行部に批判的であつた者を中心に七七名の従組員が従組を脱退して労組を結成し、翌一〇月一日、これを会社に通告した。
(三) その直後における同年年末一時金要求に関する労使間の交渉はとかく円滑を欠き、労組は、時限スト、超勤拒否、本社玄関前構内集会、ビラ貼付、ビラ配布などをくり返し、結局一二月二九日に至つて妥結し、支給された。
(四) また、会社は毎年一月にベース・アツプを行なつていたので、労組は、昭和四八年一一月二七日、その要求を提出し、翌四九年一月二九日の団交で妥結し、二月から労組員に対して新ベースによる賃金が支給された。会社はこの妥結に際して、「今後の問題として、組合に要求提出ならびに妥結の手続きにつき改善を求め、組合はこれを諒とした」という付帯条件を付し、さらにベース・アツプの一月分の差額を精算支給する付帯条件として、「妥結意思表示の時期の選択ならびに手続において、組合側に適切さを欠く面があつた」との文書を差し入れることを労組に同意せしめた。
(五) 会社は、昭和四八年八月一日理工学図書事業室を新設し、同時に小峰、那須を、九月に青木を配属したが、昭和四九年一月一六日付でこれを廃止し、同月二四日上記三名を編集総務部長付にすると同時に、小峰を城南、那須を城北各支社へ、青木を組織開発室へ応援出向を命じた。労組は、この応援出向は組合活動上の障害になるとして会社に再考方を求めたが、会社はその余地のないことを回答し、二月一日青木と那須は異議をとどめて応援出向先へ赴任し、労組は同月一二日から小峰を指名ストに入れた。
他方、会社は、若の女性対象の月刊紙「フローリア」の刊行を女性雑誌編集室に担当させていたが、昭和四八年一二月同誌の廃刊を決定し、翌四九年二月七日同誌の編集チーム八名(全員労組員)に対して、同月一二日から都内および近県の各支社への応援出向を命じた。このうち編集長は一月三一日労組を脱退し、他の労組員七名は二月一二日連名で労組に交渉を一任した。そして労組は、会社に対し、上記小峰ら三名と「フローリア」の七名の合計一〇名の応援出向問題について、団交申入れをくり返していたが、会社は一切これに応ぜず、同月一八日「異動については組合と話し合う余地はありません。これは該当本人が組合の役員であつても例外ではありません。」と記した文書を社内に配布した。
(六) 二月二七日夕刻、労組員数名が人事部長宅周辺において、「市民の皆さんに訴えます―労働者を圧殺する学研資本の実体―」と題するビラ約二〇〇枚を配布した。これに対し、会社は、三月一日「労組の人権じゆうりん行為について」と題する副社長名義の文書を社内に配布するとともに、同月三〇日小峰を出勤停止一〇日、那須を同五日の懲戒処分に付した。労組は、小峰はこのビラ配布に参加していないとして、五月三一日午後小峰ら四名が人事部長宅周辺に行き、ビラ配布の目撃者の調査を行なつたところ、会社は、六月八日小峰ら四名を、出勤停止二日または一日の懲戒処分に付し、その後処分抗議などに対して、また懲戒処分を繰り返した。
(七) 会社は、昭和四九年三月から四月にかけての労組の春闘に際しての集会などに関連して、五月二七日小峰ら九名を出勤停止四日ないし一日の懲戒処分に付し、その後労組の処分撤回闘争、夏期一時金闘争、後記組織開発室応援出向反対闘争および市場開発室配転反対闘争などに関連して労組員の懲戒処分などを繰り返した。
(八) 因みに、昭和五〇年四月一五日迄に労組が当委員会に申立てた事件はつぎのとおりである。(申立人の主張による。)
事件番号
不当労働行為の日
対象者
不当労働行為の内容
四九不五号
四八・一一・一二
<1>労組員一二九名
四八年度期末奨金差別
四八・一二・二九
<2>労組役員ら一八名
四八年年末一時金差別
四九・一・一〇
<3>小峰ら一〇名
出勤停止一〇日ないし四日の懲戒処分
四九・一・二八
<4>岡田ら八名
譴責処分ないし厳重注意
四九・四・一
<5>細谷
一〇年勤続表彰対象からの除外
四九不一八号
四九・一・二四
<1>小峰ら三名
二月一日以降都内各支社ないし組織開発室への応援出向命令
四九不一八号
四九・二・七
<2>久保ら七名
二月一二日以降都内各支社などへの応援出向命令
備考 四九年五月一七日和解成立取下
四九不二四号
四九・二・二五
青木ら二名
出勤停止三日ないし二日の懲戒処分
四九不八三号
四九・二・二五
<1>労組員一四二名
四九年一月昇給差別
四九・四・二五
<2>労組員一四七名
同年四月補正昇給差別
四九・七・一〇
<3>労組員五三名
同年夏期一時金差別
四八・一二・一三
<4>青木ら三名
厳重注意
四九・三・三〇
<5>小峰ら二名
出勤停止一〇日ないし五日の懲戒処分
四九・四・三
<6>岡田ら二名
厳重注意
四九・五・二七
<7>小峰ら九名
出勤停止四日ないし一日の懲戒処分
四九・六・三
<8>青木
出勤停止五日の懲戒処分
四九・六・八
<9>小峰
出勤停止五日の懲戒処分
〃
<10>小峰ら四名
出勤停止三日ないし一日の懲戒処分
〃
<11>青木
出勤停止五日の懲戒処分
〃
<12>小峰ら二一名
譴責処分
〃
<13>山崎ら二四名
譴責処分
四九・六・一〇
<14>小峰ら一九名
譴責処分
四九・六・一七
<15>小峰ら二二名
譴責処分ないし厳重注意
四九・七・五
<16>小峰ら九名
出勤停止三日ないし一日の懲戒処分
五〇不四〇号
四九・一〇・一一
<1>小峰ら九名
出勤停止三日ないし一日の懲戒処分
四九・一一・二八
<2>窪田ら八名
譴責処分
四九・一二・一八
<3>窪田
厳重注意
五〇・一・二四
<4>小峰ら二名
出勤停止三日の懲戒処分
〃
<5>窪田ら一一名
出勤停止三日の懲戒処分ないし厳重注意
〃
<6>宮下ら二名
出勤停止三日の懲戒処分
四九・一一・二〇
<7>労組員一五二名
四九年度期末奨金差別
五〇・一・一三
<8>〃一五六名
四九年年末一時金差別
五〇・一・二五
<9>〃一一四名
五〇年度昇格差別
〃
<10>〃一一六名
同年度昇給差別
三 会社における従業員の採用と配置
(一) 会社は、大卒者の採用については募集要項で募集職種を、<1>編集制作要員(出版・映画、教材等の編集製作業務)、<2>営業・業務要員(営業企画・調査・促進業務、管理部門業務、コンピユーター業務)、<3>技術要員(機器の設計開発業務、セールスエンジニア業務)に分け、求人申込票にも採用後の職種として<1><2><3>を記載し、応募者には必ず希望職種を明記させ、採用試験においては三部門に共通のテストの外、編集、技術部門には選択制の習得専門科目学科テストを課し、営業部門にはこれにかわる営業テストを付加し、選考は、<1><2><3>の採用区分に大別して行なつていた。そして途中入社の場合の新聞等における募集広告においても、同様の募集、選考方法が記載され、また実際にそのとおり実施されていた。このように採用区分毎に採用された従業員は部門別に研修を受けた後、各部門に配属されていた。そして営業部門に属する従業員の本支社間の配転等はしばしば行なわれていたが、編集製作部門から営業部門への配転は、管理職以外の従業員については本人の同意がない限り、ほとんどなかつた。
そして会社は、昭和四九年度、五〇年度の両年度は大卒者の採用を中止したが、その直前の四八年度大卒採用者は初めての試みとして全員が二か月間組織開発室(現実の就労場所は全国各地の支社)で研修を受け、そののち各部門に配属された。さらに、本件が争われるようになつた昭和五〇年春に発表した翌五一年三月卒業予定者に対する募集要項には、「二年間の各支社での研修を経た後、本人の適性を勘案し、編集製作、営業促進、管理、技術等の各部門でそれぞれの業務に従事していただきます。その後も必要に応じ、部門間の異動、担当職務の変更は活発に行ないます。」と記載した。
(二) 会社は、従業員を採用する際に、「会社の定める就業規則を承認し、これに従つて職務に従事する義務を負う」と明記した労働契約書を取りかわしており、就業規則には「会社は業務の都合により従業員に転勤、転籍、勤務替……を命ずることがあります。この場合従業員は正当な理由がなければ拒むことはできません。」と規定している。
四 山崎および田口に対する応援出向の発令と懲戒解雇(不当労働行為を構成する具体的事実その一)
(一) 会社は昭和四九年八月頃、「学習」、「科学」の五〇〇万部達成をめざすため、九月一日から三か月間、編集部門も含めて全社から教育事業本部組織開発室へ応援出向を行なうことを決定した。そして会社は、八月二三日学習編集部所属の山崎喜世雄(労組副委員長)、同福元(労組員)、科学編集部所属の田口精男(労組代議員)、同荒川、末包(ともに労組員)、教養出版部所属の秋山(労組員)に対して、組織開発室への応援出向を内示し、同じ頃に編集製作部門所属の従組員三名にもこれを内示した。応援出向の仕事の内容は、GEC(学研教育コンパニオンと呼んでおり、会社と専売契約を結ぶ直配所長の指揮下にあつて、会社の商品を直接家庭に配本する業務に従事する。)組織づくりで、二週間のローテーシヨンで地方支社への出張を繰り返すというものであつた。労組は、このような長期応援出向の対象とされた労組員の氏名の明示と事前協議を求めたが、会社は何れも拒否した。そして同月二八日、会社は上記労組員六名に対して正式に応援出向を発令した。このうち、秋山は応じられないとして同月三〇日退職し、また当初難色を示した末包は同日労組を脱退して応援出向に応じたが、残る四名は命令を拒否したので、会社は、九月二日以降同人らを自宅待機に付した。その後会社と組合との間に二回団交が開かれ、労組は、同月一八日、荒川、福元を異議をとどめつつ応援出向に応じさせたが、山崎、田口については指名ストに入れて、出向を拒否させた。
会社は、一一月三〇日で山崎、田口両名に対する第一次応援出向期間三か月が終ると、両名に対し、続けて七回にわたり同室応援出向を命じたが、労組は七回とも指名ストで拒否させた(一二月二日から同月二七日まで第二次、昭和五〇年一月六日から同月三一日まで第三次、二月三日から同月二八日まで第四次、三月三日から同月二二日まで第五次、同月二四日から四月一一日まで第六次、同月一四日から五月二日まで第七次)。そこで会社は、昭和五〇年四月一五日、同人らを懲戒解雇した。
(二) 因みに、労組結成以前の応援出向者はほとんど営業部門および管理部門の者に限られ、前記2(一)に認定した昭和四八年一月から三月までの間に応援出向を命ぜられた小峰、那須を徐けば、後に労組員となつた者はほとんど含まれていなかつた。ところが労組結成後、編集部門からの労組員の応援出向者は、上記小峰らの昭和四九年二月一日からの応援出向および「フローリア」関係の支社応援出向を含めて増加し、昭和四八年九月から同五〇年五月までの応援出向状況は、全応援出向者延一三一名中、労組員五八名(約四四%)、編集部門からの応援出向者延七五名中、労組員五八名(約七七%)であつた。(いずれも子会社である学研書籍からの応援出向者七名を除く)。そして労組員六名中退職した秋山を除く五名が選ばれた学習編集部および科学編集部についてみると、学習編集部においては、既に昭和四九年一月の部内異動で労組員を雑誌部門から比較的暇な非雑誌部門に配置し、就中山崎、福元については企画班を新設してそこに配置し、同部では、結成当時部員五四名のうち二九名いた労組員が本件懲戒解雇後の昭和五二年初めには八名となつており、科学編集部においては、平野リコールに関連して編集長でありながら会社に協力しなかつた細谷(後記6(一)に認定するとおり後に懲戒解雇)を昭和四八年六月科学書籍開発室に、平野リコールに反対し労組結成と同時に執行委員となつた佐川を一〇月編集総務部記事審査室に、それぞれ配転し、昭和四八年一二月の部内異動では田口を含む職場代議員や活動家を非雑誌部門に異動させ、労組結成当時部員四四名のうち二一名いた労組員が本件懲戒解雇後の昭和五二年初めには五名になつている。
五 天野の懲戒解雇(不当労働行為を構成する具体的事実その二)
労組員天野隆介は、昭和四八年三月入社し、レジヤー出版部(後に昭和四九年一〇月レジヤー出版事業部と改編)においてポウリング雑誌「ガツツボウル」の編集に当たつていた。会社は、昭和四九年九月刊行の一一月号限りで同誌を廃刊とし、編集長の本多(従組員)、編集員の川上(労組員)、同天野(労組員)に対し、一〇月一杯組織開発室応援出向を命じた後、一一月、本多を部内の週刊誌「旅行ホリデイ」に、川上を季刊のテニス雑誌「ワールド・テニス」にそれぞれ配属し、天野を同月一二日付で新設の編集総務部市場開発室に配転した。そして会社は、翌一三日、天野に対し、当面の仕事は高校学習参考書などをもつて全国の高校を回り教師と会つて、高校生にそれらの推薦方を依頼することであると説明したので、同人は、それは営業の仕事であるとして応諾せず、考慮のため翌日から有給休暇をとり、その間に労組に相談した。そこで労組は、同人の配転について会社に団交を申入れるとともに、一八日当委員会にあつ旋申請をし(昭和四九年都委争第一八一号)、同問題解決までは、同人をレジヤー出版事業部に勤務させることを申入れた。そして天野は一一月二〇日から出社し、従前どおりレジヤー出版事業部で就労し続けたので、会社は連日同人に対し配転先の市場開発室で就労せよとの業務命令を発し、天野がこの業務命令に従わなかつたとして同月二九日、同人を懲戒解雇した。
六 田口(繁)ら五名に対する配転と懲戒解雇(不当労働行為を構成する具体的事実その三)
(一) 会社は、田口(繁)ら五名に対し、それぞれ下記の日に編集総務部市場開発室配転を命じたが、同人らはいずれも、<1>市場開発室は営業の仕事である、<2>本人の同意を得ない異動である、<3>組合つぶしの意図に基く人選であるとの理由をあげてこれを拒否し、それぞれ下記の日から労組の指令による指名ストに入つた。会社は昭和五〇年四月一五日、同人らを懲戒解雇した。
氏名
労組役職
所属
配転発令月日
指名スト指令の日
田口繁富味
労組員
レジヤー出版事業部「旅行ホリデイ」編集担当
昭和四九年一二月二三日
同月二六日
宮下弘二
〃
〃
〃
〃
柿本哲夫
〃
〃
昭和五〇年一月六日
同月一〇日
藤崎和男
〃
高校雑誌編集部
同年二月一六日
同月一七日
細谷晶
副委員長
科学書籍開発部
同年四月一四日
同日
(二) なお、市場開発室の室員は昭和五〇年七月頃には室長以下五名であり、同年七月末から一〇月初めにかけて、進学教室、通信添削の現状と市場進出の可能性を調査して報告書をまとめ、一〇月中旬から昭和五一年二月にかけて、八〇校の高校を訪問して、教師の英語辞典に対する認識の実態調査などを行なつて調査報告書をまとめ、その後成人分野における新路線の企画可能性について調査を行ない、同年半ば以降報告書をまとめた。
七 窪田ら四名の懲戒解雇(不当労働行為を構成する具体的事実その四)
(一) 窪田幹雄は労組委員長、小峰光男、小檜山範男はともに同副委員長、安西剛は同書記長であつたが、会社は、昭和五〇年四月一五日、同人らが上記四(一)および六(一)に認定した応援出向および配転を拒否させるために違法な指名ストを企画、実行させた責任があるとして、同人らを懲戒解雇した。
(二) なお会社は、小峰については上記事実のほか、昭和五〇年四月四日上司の指示命令に従わず職場の秩序を乱した上、人事部長らに全治四日以上の傷害を与え、以前にも暴力行為あるいはその類似事由で三回出勤停止を受けているなど反省の色がないことを理由に加えている。
八 青木の懲戒解雇(不当労働行為を構成する具体的事実その五)
(一) 青木宏は、昭和四六年頃百科編集部に在籍中、従組内で執行部批判を始め、翌四七年二月には、同人と同じ考えで従組職場委員選挙に立候補した水谷の推薦人となつた。そして水谷が敗れた後、四月から従組組合費不払いを始め、不払い闘争グループのビラ配布を理由に、一〇月三〇日小峰、水谷、那須らとともに譴責処分を受け、昭和四八年九月には理工学図書事業室へ配転された。同月三〇日労組結成とともに組織部副部長となり、同年年末一時金闘争中の行為を理由に、翌四九年一月一〇日に、一〇日間の出勤停止処分を受け、理工学図書事業室廃止後は編集総務部長付となつて、二月一日から組織開発室応援出向を命ぜられ、名古屋支社で勤務中の腕章着用を理由に、同月二五日、三日間の出勤停止処分を受け、三月一日から再度応援出向を命ぜられたので指名ストでこれを拒否した。この件については五月一七日に至つて、小峰、那須とともに七月一日から本社編集部門に復帰させるとの和解が成立し、会社は、同人らを編集総務部長付で本社に復帰させたけれども、同人らに対し、入社以来従事してきた自然科学系統の編集製作業務を命ぜず、全く畑違いの漢和辞典の校正等を命じた。この間同人は六月三日には人事部長宅周辺ビラ配布を理由とする五日間の、同月八日には常務の車発進の妨害を理由とする五日間などの、各出勤停止処分を受けたほか、七月一〇日支給の夏期一時金はゼロ査定で、標準支給額マイナス二八万円であつた。同年一〇月実用グループの代議員となつたが、一一月二〇日支給の昭和四九年度期末奨金支給額は、小峰とともにゼロで、標準支給額マイナス二七万円、昭和五〇年一月昇給の職能給昇給では小峰、水谷、山崎とともにゼロ査定で、標準昇給額マイナス一三、七〇〇円であつた。
(二) 昭和五〇年四月一五日、会社は、青木を懲戒解雇した。その理由は、同年三月一一日通勤途上の高木高校雑誌編集部長に対して暴力をふるい、全治五日間の傷害を加えたほか、前記一月一〇日付処分(出勤停止一〇日)および六月八日付処分(同五日)にもかかわらず一向に態度を改めないばかりか、昭和四八年一〇月以降二〇数件にわたる暴行脅迫を行なつているというものであつた。
九 水谷の懲戒解雇(不当労働行為を構成する具体的事実その六)
(一) 水谷嘉朗は、昭和四二年六月入社し、昭和四七年二月、従組執行部批判の立場から自然科学編集部において職場委員選挙に立候補したが、執行部派の候補者に敗れ、組合費不払い闘争グループのビラ配布を理由に、昭和四七年一〇月三〇日小峰、青木らとともに譴責処分を受けた。昭和四八年九月三〇日労組結成後は執行委員となり、同年年末一時金闘争の労組の集会等に対する幹部責任を理由に、翌四九年一月一〇日、小峰ら九名とともに出勤停止四日の、五月二七日には春闘中の労組の集会などに対する幹部責任を理由に小峰ら八名とともに出勤停止一日の、六月八日には昼休みに人事部に処分抗議に行つたことを理由として小峰ら二〇名とともに譴責の、七月五日には夏期一時金要求、処分撤回要求中の集会などに対する幹部責任として小峰ら八名とともに出勤停止一日の各処分を受けた。同年一〇月以降は会計監事となり、同年年末一時金では山崎、田口とともにゼロ査定で、標準支給額マイナス二九四、〇〇〇円、昭和五〇年一月昇給の職能給昇給では小峰、青木、山崎とともにゼロ査定で、標準昇給額マイナス一三、七〇〇円であつた。
(二) 昭和五〇年四月一〇日、会社は水谷を懲戒解雇した。その理由は、昭和四八年当時「グランド現代百科辞典」を担当していた際、特定の執筆者に対し、(ア)原稿を故意におくらせてほしい、(イ)入手原稿を同人の手許にとどめ会社に対し秘密にしておくことに協力してほしい、(ウ)私用の外出を公的と偽つたことにつき、会社に対し口裏をあわせる協力をしてほしい、などと要請し、現実に同年八月末までに入手した同事典第二〇巻の原稿数点を、執筆者の執筆遅れと称して、二か月近く手許にとどめ置いたというものであつた。
第二判断
一 山崎、田口に対する応援出向命令と懲戒解雇
(一) 労組は、本件応援出向は、編集者である労組員らを異職種の営業部門たる支社に分散させ、労組の弱体化を企図したものであると主張し、会社は、編集業務は労働契約上の職種ではなく、本件応援出向は、家配組織確立のための全社的応援出向の一環として、編集製作部門からも仕事の比較的暇なものを選んだもので、本人に不利益を与えたり労組に影響を与えようとしたものではないと主張する。
(二) 前段第一の二に認定したとおり、会社は、労組結成に先立つて従組執行部を批判するビラを配布した従組員を譴責処分に付し、同じような批判的立場に立つ職場委員を職制が中心となつてリコールし、労組結成後の団体交渉についても、例えば昭和四九年一月のベース・アツプ要求提出から妥結に至るまでの過程で労組側に適切さを欠く面があつた旨を自認することを付帯条件にして妥結するとかのことがあり、さらに、労組員の応援出向などの異動については、労組と話し合う余地はないことをさらに強調した。また人事部長宅周辺のビラ配布については、調査をして解決する方法をとらず、小峰、那須が行なつたときめつけて同人らを出勤停止処分に付し、労組の目撃者調査や抗議に対してまた懲戒処分を行ない、その後も労組の行動に対して懲戒処分を繰り返すなどのことが続いた。このような労使関係の紛糾にともない、当委員会への救済申立てが相ついだことも、それらの事件における不当労働行為の成否はしばらくおくとして、きわめて異例に属するところである。
(三) <1> ところで会社は、昭和四七年に大幅な減収、減益に直面し、大卒の新規採用の中止、在籍人員の再配置による従業員二〇〇名の削減などを行ないながら、他方で家庭直配体制の確立、強化に努めることとなり、同年六月、組織開発室を設置し、同年九月から全社的に同室への応援出向を命じたものである。従つて翌四八年にかけての会社の営業部門および管理部門を中心とした応援出向には、業務上の必要があつたことが認められる。
<2> しかし、応援出向の最盛時は昭和四七年一一月であつて、本件応援出向(昭和四九年八月末)の直前三か月は最盛時の三分の一程度となつており、家配移行部数も全体の七五%に達していることからして、この時期に、上記のように編集製作部門まで加えた大規模な応援出向を行なわなければならない差し迫つた必要があつたかは疑問である。この点につき、会社は新一年生の入祝号対策のためというが、同様の課題を抱えていた前年同期に既に応援出向が減つていることからして、この年度のみ新一年生の入祝号対策があげられるのも不自然である。
(四) <1> そして労組結成後の昭和四八年九月から同五〇年五月までの応援出向状況は、前段認定のとおり、全従業員二、四〇〇名のうち労組員は二〇〇名強(約九%)であるのに、応援出向者延一三一名のうち労組員は五八名(約四四%)、編集製作部門の従業員一〇〇〇名余のうち労組員は約二〇〇名(約二〇%)であるのに、同部門からの応援出向者延七五名のうち労組員は五八名(約七七%)であり、労組員の比率が異常に高い。
<2> そして本件応援出向命令についてみると、(ア)応援出向を命ぜられた者九名のうち六名が労組員であり、労組員の割合が異常に高いこと、(イ)学習編集部、科学編集部の人選にみられるように、労組員を予め余剰人員化しておいて、その労組員に応援出向を命じていること、(ウ)本件応援出向、懲戒解雇後、両部の労組員が激減していること、(エ)指名ストに入つて応援出向を拒否した山崎らに対しては、七か月半にわたり七回応援出向命令を発しているのは本件応援出向命令に異議を唱える者に対する報復的な措置とも考えられること、(オ)編集製作部門からの応援出向は、異職種への異動であつて問題が多いという労組の反対をあえて無視してまでわざわざ新たに編集製作部門から応援出向せしめようとしたのは、同部門に集中している労組員を分散させるための方策と考えられること、を総合すれば、本件応援出向命令が、いわゆる異職種配転であるか否かはしばらくおくとして、本件は、労組を嫌つていた会社が、組織開発室応援出向を労組対策として利用し、労組員であるが故に応援出向を発令し、しかも労組員のほとんどいない支社へ分散させ、労組を弱体化させようとしたとみるのが相当であり、その拒否を理由とする本件懲戒解雇も、同様に不当労働行為である。
(五) なお会社は、従業員の採用時には、必ず前段認定のような労働契約書をとりかわしているから、従業員は転勤命令に従う旨を明確に約していると主張するけれども、それだからといつて、不当労働行為となるような配転の発令が放置されるものではない。
二 天野の懲戒解雇
(一) 労組は、本件懲戒解雇は、会社が天野を市場開発室という営業に属する異職種へ配転し、これを拒否したことを理由とする不利益取扱いであると主張し、会社は、市場開発室は編集総務に属する調査企画担当部門で、「ガツツボウル」廃刊に伴う措置として、同人に配転を命じたところ、これを拒否したので解雇したもので、組合活動を嫌つてではないと主張する。
(二) 会社が労組を嫌つていたことは、前記一で判断したとおりである。そして、(ア)昭和四九年度期末奨金の査定において、天野の支給率は五〇%、労組員川上は七五%、従組員本多その他の「旅行ホリデイ」担当の従組員九名はいずれも一〇〇%であつたこと、(イ)「ガツツボウル」誌を担当していた従組員は全員を「旅行ホリデイ」担当とし、また稿料払いのフリーの編集員一名をテニス雑誌に移し、天野のみを余剰人員として部外に出していることが認められる。
(三) ところで、会社は、昭和四九年一一月一三日天野に対して、市場開発室の業務の内容は、高校学習参考書などをもつて全国の高校を回り、教師と会つて高校生にそれらを推薦してもらうことであると述べ、ついで同月一五日配布の社達(同月一二日付)では、同室設置の目的は、市場開発の課題を製作部門の立場から推進することにあると述べ、同月一八日付「労組への回答」では、同室の「業務は、イ、新規企画、新規分野の開発研究、ロ、現行商品の市場面からの点検、検討である」と述べており、本件審問においては、市場開発室は、製作ライン部門から生ずる過剰人員を活用して企画調査業務を行ない、当面の業務主題は、(ア)高校マーケツト開発上の問題点、(イ)家庭教育の可能性と限界、その教育手段の開発の方向、(ウ)成人分野の商品可能性などであり、とりあえず「アンカー英和辞典」などを携えて高校をまわり、教科担当の教師に採択をすすめるが、ノルマを課すようなことはしない、と主張しているが、その内容は昭和五〇年二月五日付の「学研ライフ」紙上で初めて公表されたもので、天野の解雇当時には全く説明がなされていなかつた。したがつて同人や労組が、同室は営業部門であり、業務内容もはつきりしないとして、同室への配転を一連の労組対策と理解したのも無理からぬところがあり、その後の経過をみても、後記のとおり、同室は結局労組員を封じ込める場所として機能しているから、結局本件配転は、天野が労組員なるが故の不利益取扱いであり、その拒否を理由とする本件懲戒解雇も、また不当労働行為である。
三 田口(繁)らの配転と懲戒解雇
(一) 労組は、本件市場開発室への配転は、労組員なるが故の異職種配転であるとともに、労組員のいない部門へ異動させることによつて組合活動を不可能ならしめるものであると主張し、
会社は、市場開発室は編集総務に属する調査企画担当のスタツフ部門として、余剰人員の積極的活用を図つて新設されたもので、(ア)田口(繁)、宮下、柿本については、「旅行ホリデイ」担当の人員縮小の必要に伴い転出させたものであり、(イ)藤崎については、市場開発室の室長補佐役として、(ウ)細谷については、藤崎が配転を拒否した結果、同人の代りに任命したものであると主張する。
(二) <1> 会社が労組を嫌悪していたことは、前記一、二で判断したとおりである。そして、(ア)昭和四九年度期末奨金査定において、「旅行ホリデイ」誌担当の従組員九名の支給率は一〇〇%であつたのに、田口(繁)、宮下、柿本のそれは五〇%であつたこと、(イ)田口(繁)らはいずれも「旅行ホリデイ」が創刊された昭和四八年半ば頃から同誌を担当していたが、会社は、昭和四八年一二月に「ガツツボウル」の担当であつた青柳、山本(ともに従組員)を、昭和四九年一一月に同じく本多(従組員)を同誌に異動させ、そのあと、田口(繁)ら三名の労組員を部外に配転させたこと、(ウ)同人らよりも編集経験も短く、後に同誌の担当となつた高橋および稿料払いのフリーの一名を同誌に残していることが認められ、さらに、(エ)会社が同人らの人選の理由としてあげる編集経験未熟の例はいずれもこれを認定することができない。
<2> そして会社は、佐川(労組執行委員)を昭和四八年一〇月編集総務部編集記事審査室に配転し、ついで昭和四九年二月一日付で小峰、青木、那須を編集総務部長付としていたが、さらに同年一一月一二日同部に市場開発室を設置して、天野、ついで田口(繁)ら五名を、さらにその後西村、中村の両名の労組員を同室に配転し、しかも西村らが同室で実際に行なつていた仕事も、後記のとおり、会社にとり緊急の必要があるものとは考えられないことからして、結局市場開発室は、労組の役員や活動家を封じ込める部門として機能していた編集総務部自体をさらに拡充したものとみるのが相当である。
ところで会社が、市場開発室の業務内容について上記二(三)で判断したとおり、天野の懲戒解雇、田口(繁)ら三名の配転後に至り、初めて説明していることは、同室の設置が業務上の必要性よりも労組対策としてなされ、労組の反対運動にあつたために、事後に至りその設置の合理的理由を主張するに至つたものと解される。そして本件田口(繁)ら五名の解雇後、前段認定のとおり、同室では進学教室、通信添削の現状と市場進出の可能性の調査などを行なつており、これらの調査は、営業との関連が薄いといえるけれども、このことは労組の反対や本件審問を多分に意識してのものと思われる。しかもこれらの調査は、いずれも主管の他部が専門のスタツフを揃えて行なつているところであり、会社もまた、これらの市場調査を未経験者が行なうことを期待していたとも考えられず、市場開発室が、会社の強調するように差し迫つて重要な組織であると解することはできない。仮に会社の主張するように重要なものであるならば、本件労組員を充てず、他の熟達した社内の適任者を充てるべきものと考えられる。
<3> 以上を総合すれば、結局本件田口(繁)ら三名の配転は、労組員を嫌つていた会社が労組員を封じ込める場所として市場開発室を新設し、人員縮小に籍口して同人らを同室に配転したもので、その拒否を理由とする本件懲戒解雇も、同様に不当労働行為である。
(三) 藤崎の配転についてみるに、(ア)同人は、昭和四九年一二月、高木高校雑誌編集部長から従組にとどまるようにとの懇請を受けたが、拒否して労組に加入したもので、一般職一級という同部の労組員のなかで最も高い職級にあつたこと、(イ)会社は、その直後の昭和五〇年一月の部内異動で、藤崎と同人につぐ高い職級にあつた西村(昭和四九年三月労組に加入)とほか労組員一名を企画開発部門へ異動させ、さらに二月には藤崎を、六月には西村を市場開発室へ配転したこと、(ウ)藤崎は既存雑誌の製作業務に適しないから配転したという会社主張は、これを認めるべき十分な証拠がないこと、(エ)本件配転前には高校雑誌編集部員約七〇名のうち二七名が労組員であつたが、昭和五一年二月には九名となつていることと、上記(二)<2>で判断した点を考え併せれば、結局本件配転は、藤崎が労組に加入したが故の不利益取扱いであり、その拒否を理由とする本件懲戒解雇も、同様に不当労働行為である。
(四) 細谷の配転についてみるに、(ア)第一の四(二)に認定したとおり同人は科学編集部時代の昭和四八年五月平野リコールの署名を拒否し、翌六月科学書籍開発室へ配転されたこと、(イ)同年九月労組結成後は監督職補という管理職に近い地位にありながら副委員長に、翌四九年一〇月からは執行委員に就任したこと、(ウ)会社は、同人を人選した理由として企画力に乏しいとの点を挙げているけれども、同人の編集長就任や職級昇格は他に比べ早い方であつたことや、社内の企画コンテストで入賞、表彰を受けたりして、会社も、労組結成前は同人の企画力を高く評価していたことが認められ、会社の主張は採用できないこと、(エ)上記(二)<2>で判断した点を併せ考えれば、結局本件配転は、同人の組合活動を理由としたとみるのが相当であり、その拒否を理由とする同人の懲戒解雇も、同様に不当労働行為である。
四 窪田らの懲戒解雇
(一) 労組は、本件懲戒解雇は、労組員の応援出向、配転を拒否させたこと、指名ストを行なつたことを理由とする不利益処分であると主張し、会社は、本件が懲戒解雇は、上記山崎ら二名および田口(繁)ら五名の違法な指名ストを企画、立案、卒先指揮した責任を追及したものであると主張する。
(二) 上記判断のとおり、山崎ら二名の応援出向および田口(繁)ら五名の配転は不当労働行為と認められ、従つて労組がそれらの応援出向、配転を拒否するために指名ストを行つたことは、労働組合の「正当な活動」に該当し、これを理由とする本件懲戒解雇も同様に不当労働行為である。
(三) なお、会社は小峰の解雇理由として、昭和五〇年四月四日の件を付加している。そしてこの件は、たまたま同日編集総務部の慰安旅行が行なわれ、小峰はこれに参加せず特別休暇を与えられていたが、会社の自席へ労組関係の書類を取りに行くため入館したところ、人事部長がこれを見とがめ、休日出勤には許可がいるとして、会社職制を呼び実力で同人を退去させようとした過程でおきた小ぜり合いであつて、人事部長や現場の撮影に当つていた職制が軽傷を負つたけれども、小峰自身も負傷しており、しかもその程度は小峰の方がやや重く、原因の一端は会社側にもあるから、その責を小峰のみに負わせることはできない。そして同人は、会社の主張するように以前にも三回懲戒処分を受けているけれども、これらは同人の組合活動などに関連しておきた事実を誇大に取り上げて処分したとも考えられ、小峰について付加された解雇理由を考慮しても、同人の懲戒解雇は、さきに判断したとおり不当労働行為と認められる。
五 青木の懲戒解雇
(一) 労組は、本件懲戒解雇は、会社が同人の組合活動を嫌悪して事件を捏造したものであると主張し、
会社は、本件懲戒解雇は、青木が昭和五〇年三月一一日朝出勤途上の高木高校雑誌編集部長に暴力をふるつて傷害を加えた外、すでに二回の懲戒処分を受け、また昭和四八年以降、二〇数件にわたる暴行脅迫を行なつたことを理由としたものであると主張する。
(二) 昭和五〇年三月一一日朝、青木が出勤途上の高木部長に対して、細谷の配転理由につき執ように問い質すと同時に抗議したこと、高木部長が負傷したことは認められるが、この高木部長の負傷が青木の行為によるとの十分な疎明はない。そして、同部長は、病院で湿布薬のみを貰い、手当は受けずに帰社しており、同日午後会社は二度にわたり社内放送で青木らが同部長に暴力を加えた旨を述べ、これに対し同人が人事部長や高木部長に電話で抗議したところ、会社は同人の通話時間二〇分間の賃金カツトをしたことが認められる。
(三) 他方、会社が、青木の組合活動を、同人が従組員であつたときから一貫して嫌悪していたことは、前段第一の八(一)に認定したところである。
(四) 以上を総合すれば、昭和五〇年三月一一日の事件は、出勤途上の職制に対する抗議行動として許される範囲であるか問題があり、さらに同人がさきに二回にわたり出勤停止処分を受け、かつ、二〇数件にわたる暴行脅迫行為があり、行き過ぎの点もあつたにせよ、それらのほとんどが労組の組合活動に関連して生起した事柄であり、一連の会社の対応からして、一概に同人のみに責を負わすことができるかどうかは疑問であるから、結局本件懲戒解雇は、同人の組合活動を嫌つた会社が、同人を企業外に排除しようとしてなしたものとみるのが相当である。
六 水谷の懲戒解雇
(一) 労組は、本件懲戒解雇は、水谷の組合活動を嫌つたもので会社の挙げる懲戒解雇の理由は事実無根であると主張し、
会社は、水谷が業務妨害を行なつたから懲戒解雇したと主張する。
(二) (ア)水谷が「グランド現代百科事典」の執筆者に対して、会社主張の前段第一の九(二)に掲げる(ア)(イ)(ウ)の要請をした事実は認められない。(イ)そして同百科二〇巻の原稿の入手は、実際に二か月近く遅れていたもので、しかも同執筆者は既に一七巻から二〇巻にかけても三か月ないし四か月ずつ入稿を延引しており、その程度の遅れは同執筆者だけではないこと、(ウ)さらに本件について会社が調査を始めたのはこの事件が起つたという時期から一年以上も後の昭和四九年末のことであること、(エ)会社は前段第一の九(一)で認定したとおり水谷が従組員であつたときから同人の組合活動を嫌悪していたことを総合すれば、結局本件懲戒解雇は、会社が同人の組合活動を嫌い、同人を企業外に排除するためになしたものとみるのが相当である。
第三法律上の根拠
(一) 以上の次第であるから、<1>山崎および田口(精)に対する組織開発室応援出向命令およびその拒否を理由とする懲戒解雇、<2>天野の懲戒解雇、<3>田口(繁)、宮下、柿本、藤崎、細谷に対する市場開発室配転とその拒否を理由とする懲戒解雇、<4>上記の応援出向、配転拒否のための指名ストを企画、立案、指導したことを理由とする窪田、小峰、小檜山および安西の懲戒解雇、<5>青木および水谷の懲戒解雇はいずれも労働組合法第七条第一号および第三号に該当する。
(二) なお、労組は、山崎ら二名の応援出向拒否および田口(繁)ら五名の配転拒否のため、本件懲戒解雇の日まで、同人らに指名ストを指令していたが、この指名ストは、本件応援出向および配転に抗議し、これを拒否するとともに解雇を避けるために、当該受命者のみに指令したもので、不就労そのものを目的としたものではないと解され、しかもこのような指名スト期間中の賃金相当額の支払を差し控えるべき特段の事情も見出し難いから、本件の救済としては、指名スト期間中の賃金相当額の支払を命ずることとした。
また、小峰および青木の原職復帰後同人らに与えるべき仕事は、都労委昭和四九年不第一八号事件和解協定書第二項の趣旨に従つて、本社編集製作部門の同人らの経歴を斟酌したものとすべきものと思料する。
(三) よつて、労働組合法第二七条および労働委員会規則第四三条を適用して、主文のとおり命令する。